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 つまり、『タコピーの原罪』でいえば、我々がストーリーの序盤に見ていたしずかは、あくまでその一面でしかないということ。だが、主人公が「容疑者は無実なのか?」と翻弄されるさまを描いた映画『真実の行方』や『理由』のように「欺く」意志がそこにあるのではない、という点が重要だ。

 どういうことかというと、しずかは最初から自らを偽っているわけでも、隠しているわけでもない。まりなが死んで豹変したわけではなく、利用できる相手と状況になったから、自らの能力を発動したまでなのだ。

 そういった意味では、ヴィランの過去にフォーカスを当てて誕生秘話を描く『ジョーカー』、敵である鬼も元は皆人間であり、人間VS元人間のバトルが哀しみを醸し出す『鬼滅の刃』のような、ある種の「憐憫」はしずかとは無縁のものといえるかもしれない。彼女が置かれた環境や状況が与えた影響は大きいにせよ、より「元からこういう人だった(かもしれない)」というニュアンスが強く描かれているのだ。

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アカデミー賞最多ノミネート『パワー・オブ・ザ・ドッグ』との共通点

 しずかを「かわいそうな被害者」と定義したのは、あくまで彼女を見ている「我々自身」であるということ。もちろん、対比構造として「まりなもまた被害者であり、歪んでしまった」というドラマは描かれるものの(こちらはどちらかといえば『鬼滅の刃』に近い方法論)、しずかが「自分の苦境を脱するために躊躇なく他者を利用する」ことに対し、バイアスをかけていない部分は非常に現代的であり、本作の大きな特長といえる。

 いわば、『タコピーの原罪』のしずかは、「被害者はこうあるべき」というステレオタイプを破壊する存在でもある。目的のために他者を利用し、使い捨てる行為は我々読者から見れば“悪”であり、非人道的なものだが、そもそもしずかはいじめられていた人間ではあるものの、聖人君子であるとはどこにも描かれていない。本作は、「しずかの見え方が変わる」ことによって、我々読者自身の“原罪”をも暴き出すのだ。