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廃藩置県後にも藩校を残した地元名士たちの意地

 藩校は17世紀ごろから、塾のような形で始まったといわれている。18世紀には大規模な学校形式のものが増え、19世紀にはほぼ全国に普及した。主に、支配者階級としての学識と徳を教える目的であり、その多くは儒教思想に基づいていた。有名な藩校としては、会津の日新館、水戸の弘道館、長州の明倫館、佐賀の弘道館、熊本の時習館、鹿児島の造士館などが挙げられる。

 寺子屋や私塾、そして藩校が明治以降の学校の基盤となったというのが定説だ。ただし、表面的にとらえれば、1871年の廃藩置県で藩校は途絶えたはずである。しかし社会のしくみが変わっても、藩士の志は受け継がれた。

 多くの藩校が明治に公立の中学校へと姿を変えた。戦後は高校に改組した。代表的なところでは、岡山の仮学館の流れを汲む岡山朝日高校(岡山県)、松山の明教館の流れを汲む松山東高校(愛媛県)、佐賀の弘道館の流れを汲む佐賀西高校(佐賀県)などがある。それぞれ各県を代表する高校としていまも特別な存在である(図表)。

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 藩校の名称を現在にそのまま受け継ぐ米沢興譲館の創立は1697年にまで遡る。300年以上前から「興譲の精神」が語り継がれる。廃藩置県後、上杉家の資金によりいちどは私立米沢中学校になる。その後公立に転じる。

 米沢の人々にはいまも上杉の城下町という意識があり、公立小中学校には上杉謙信と上杉鷹山の肖像画が掲げられている。

 福岡の修猷館の創立は1784年。廃藩置県後、県立中学校として再興されようとしたときに、文部省から藩校名を引き継ぐのはふさわしくないといわれたが、旧藩士が猛反発。旧藩主・黒田長溥が出てきて「金は出すから館名は残せ」とした。

 鹿児島県の鶴丸の校名は、島津家の居城・鹿児島城の愛称に由来する。そこにあった造士館の系譜を直接受け継ぐのは現在の鹿児島大学だとされているが、その紆余曲折の中で鶴丸もできている。

 広島の修道の創立は1725年。廃藩置県後、旧藩主・浅野長勲は藩校を維持しようとしたが、官からの圧力で経営から身を引く。公立中学の経営に邪魔だとされたからだ。残された校長が独力でなんとかこれを維持し、藩校の系譜が私立中高一貫校という珍しい形でいまに受け継がれている。