例えば「だるまさんが転んだ」という言葉を見た時、この書評の読者ならすぐ子供の遊びの名前だと分かるはずだ。これを外国語に訳す場合、「だるまが転倒した」と直訳しても通じない。中国語なら「一二三、紅緑灯(交通信号)」や「一二三、木頭人(でくのぼう)」、韓国語なら「ムクゲの花が咲きました」と訳す必要がある。このように人間の体験や生活に根差した言葉は、いくら機械翻訳が発達しても正しく訳すのは難しいだろう(試しにLINEの日中通訳機能に「だるまさんがころんだ」を入力したら、何故か「鄧小平が転んだ」という訳が返ってきた)。したがって、人間の生活の様相を描く文学という分野では、人間の翻訳者は最後まで必要とされると思う。
本書は「外国文学」よりも、その「翻訳者」に着目した本だ。ヘブライ語、チベット語、ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語、タイ語、ポルトガル語、チェコ語――多くの日本人にとって馴染みがなく、学習者も少なく、「その他」と分類されがちな九つの言語。それらの「マイナー言語」の文芸翻訳を手がける、9人の翻訳者へのインタビューで本書は構成されている。
もとより言語学習は決して簡単なことではないが、「マイナー言語」の場合それは一層困難を伴う。まず学習者が少ないから切磋琢磨できる人はいない。次に、よい教材や辞書がなかったり、学習環境が整っていない。全ての困難を乗り越え、文芸翻訳ができるレベルの語学力を手に入れたとしても、最後には実用性――つまり「食っていけない」という問題に遭遇する。翻訳したい本が見つかり、出版社に企画を持ち込んでも断られるのは日常茶飯事だ。
本書に登場する翻訳者たちは、言語や翻訳に興味を持ったきっかけも、出くわした困難への対処の仕方も人それぞれだ。ある人は良い教材がないならと、自分で勉強するための辞書や文法書まで作成したという。しかし共通する部分もある。どの翻訳者も留学などで現地の生活を体験し、それぞれの国や地域の歴史と文化について深い知見を持っている。具体的なアプローチこそ異なるものの、どの翻訳者も少しでも多くの日本人読者に読んでもらうために、訳文の推敲や作品の届け方に腐心している。そして何より、言語を身につけることによって広がったもう一つの世界、そこで生きている人たちの姿と肉声を、文学という形で日本の人たちに紹介したいという切なる熱情はどの方も同じで、その熱量は紙のページからひしひしと伝わってくる。
この世界には3000を超える言語がある。そのほとんどが「その他」に分類されるが、全て切り捨ててしまうのはあまりにも勿体ない。「その他」の世界も、それぞれ鮮やかなはずだ。本書は九つの「その他」の世界の鮮やかさを教えてくれる一冊なのだ。
登場する翻訳者と言語/鴨志田聡子(へブライ語)、星泉(チベット語)、丹羽京子(ベンガル語)、吉田栄人(マヤ語)、青木順子(ノルウェー語)、金子奈美(バスク語)、福冨渉(タイ語)、木下眞穂(ポルトガル語)、阿部賢一(チェコ語)。
りことみ/1989年、台湾生まれ。作家。『彼岸花が咲く島』で第165回芥川賞受賞。著書に『星月夜』『生を祝う』など。