伊丹の発言が新しすぎて…
『再び女たちよ!』刊行から7年後の1979年、さも続編ですよって感じで刊行された(ように今は見えるけど実際はどうだったのか不明)のが大問題作『女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!』です。アナウンサーの田原節子さん(当時は村上姓。後に田原総一朗氏の妻。04年没)との巻頭対談では「伊丹が、いつの間にかバキバキのフェミニストになってるう!!!」と度肝を抜かれます。たとえばセックスの体位について、正常位の正常とは何なのか、男が女を組み敷く形だから「正常位」なのかと疑問を呈したり。男性について「自分とも人ともいつも勝負しているので世界がすっかり歪んでしまっている」「女をたくみに『いかす』ことによって見えざる敵を倒している」と喝破したり。「女性の対人関係における感度の良さは社会によって作られるものであり、性差別社会の産物」と的確に言い切ったり。今っぽく言うならまさに、うなずきすぎて首がもげるし膝を叩きすぎて半月板損傷するやつです。ウーマンリブ運動に参加していたバリバリのフェミニストの田原さんですら、伊丹の発言が新しすぎてきょとんとしてしまう場面もしばしば。全部すごいんだけどもうここだけどうしても読んでほしいので抜粋します。
伊丹「やっぱり女に対する果て知れぬ軽蔑があるんですよね、男の中には。どんな駄目な男よりまだ下があってそれが女だというような安心の上に男は安住してるわけで──つまり、男にとって女というのは勝負の対象じゃないんだね、勝負すりゃこっちが勝つに決まってる相手、要するに一段ランクが下の劣等人種という発想が男には抜きがたくあるのね。だから、見ているけど見てないわけね。女の中に人間を見てない。自分と同じ人間を見てない。だって女は人間じゃないんだもの、彼にとって」
息子に対して「男なら泣くな」と言わない
70年代の日本の男性が何読んで何食ったらこうなるんだ。十三、恐ろしい子……! エッセイも今の感覚にひけを取らないほど先進的です。当時の日本ではほぼありえなかった立ち会い出産の良さについて語る「二人目」、主夫として家事と子育てをこなす友人の先進的な考えを紹介する「男女平等」、息子に対して「男なら泣くな」「女の子みたいだぞ」といった言葉は使わないと語る「父と子」。この本にはフェミニズムやジェンダーといった言葉は出てこないけれど、今の私たちがそれらの言葉を使ってやっと説明していることが既に明晰に綴られています。「十三、未来から来た未来人なの……?」としか思えなくて、空恐ろしさすら感じます。しかし実際は未来人だったわけではなく(そりゃそうだ)、ものすごい量の情報を仕入れては、真摯に思考を深めた結果なのだろうと思います。どうして当時の日本において彼にだけそれができたのか、今となってはわからないけれど。
84年に映画『お葬式』、翌年『タンポポ』、そして87年『マルサの女』の大ヒット。伊丹映画はひとつの社会現象となり、伊丹は一流の映画監督として名を馳せます。伊丹映画ははちゃめちゃに優れた娯楽作品であって、故になかなか気付かれることがないのですが、そこには確かにフェミニズムが通底しています。働き、戦い、子を育て、セックスする、わきまえない大人の女、男の尺度で推し計れぬ女がスクリーンを走り回り、みんなを虜にした。そんな時代があったんだなと懐かしんでしまう場合ではなく、私たちは今こそフェミニストとしての伊丹十三を初めて評価すると共に、彼のすごさを語り継いでいかなければなりません。ああ、最後にもう一度だけ言わせてください。伊丹十三、大好き!!