中澤 当時から競技団体はいろいろな大会を開催していて、そこには中学生も出場していました。しかし学校側は、中学生が大会で勝ち上がることにのめり込んでしまうと学校の授業や教育のあり方に悪影響が出ると考えました。なので体育の普及などと合わせて「大会をやらせない」ことを主目的の1つとして、中学校の体育教員が中心になって中体連を結成しました。
――その中体連が、なぜいつの間にか「全中」を主催するようになり、今では「全中」の開催を主張する側になったのでしょう。
中澤 中体連の方針変更には、1964年の東京オリンピックと1972年の札幌冬季オリンピックをきっかけに勢いを増した競技団体の影響がありました。オリンピックでメダルを取れる強い選手を育てるために全国大会を開きたい各競技団体に“押される”形で、文部省がだんだんと大会の規制を緩和していったんです。特にオリンピックに合わせて競技力向上が期待された水泳とスキーは、特例として1960年代に全国大会が解禁されました。
野球の全国大会を抗議によって廃止に追い込んだことも
――最初に全国大会の開催を主導したのは日本水泳連盟や全日本スキー連盟で、中体連ではなかったんですね。中体連は拡大する大会をどう見ていたんでしょう。
中澤 苦々しい目で見ていたのだと思います。水泳の全国大会が初開催された1961年には、理事の山岡氏が「……大会行事の不拡大ということは義務教育下の中学校で何をさておいても必要なこと」と抗議した記録も残っています。
――その時点では大会の拡大にかなり強めに反対していたのですね。
中澤 しかし1964年の東京オリンピックが全国的に盛り上がり、1969年にはサッカーや柔道、卓球など多くの競技で競技団体主導の全国大会が解禁されました。ただその時も、中体連の会長だった片寄八千雄氏が「一部選手の勝利中心主義の傾向、長期間過度の練習による学習への支障、専門的スポーツの過激な練習による調和的発達の阻害、指導者の勤務と学校運営の支障、参加経費及び傷害の保障等々義務教育下の生徒にとって弊害が多く、問題の壁に当っていることが放置できない……」と、やはり過熱する部活熱、大会熱に苦言を呈しています。
――現代の部活問題にそのまま通じるような指摘です。
中澤 そうなんです。エスカレートする部活熱が問題だという観点は最近生まれたものではなく、1950~60年代にはむしろ一般的でした。それが一度忘れられ、最近“ブラック部活”問題としてあらためて発見されたんです。実際に大会反対運動が実って、野球の全国大会が廃止になった例もあります。1950年代前半に東京防犯協会連合会が中学生年代を対象に開いた「全日本少年野球大会」です。後援には読売新聞がついていて、全国大会の会場はもちろん後楽園球場でした。高校生年代の甲子園を朝日新聞と毎日新聞に握られていたので、中学生年代に進出しようとしたのだと言われています。