デザインされた媒体で対象に行動を促す「広告」。なかでも「ポスター」は長年にわたって、多くの人にメッセージを届ける媒体として利活用され続けてきた。

 そんなポスターのデザインにおいて、日本が海外から受けた影響は大きい。なんと、戦前期の日本では、“パクリ”と言っても過言ではないほど大胆に、欧米の作品を“翻案”していたのだ。はたして、かつてのデザイナーたちはどのようなポスターを製作してきたのか。

 ここでは、ポスター研究者の田島奈都子氏が、独自の発達を遂げた日本製ポスターを振り返った著書『ポスター万歳 百窃百笑』(文生書院)の一部を抜粋。戦時期に製作されたポスターを多数の図版で紹介する。

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 燦燦と輝く太陽に向かって、両手を大きく広げる男性のシルエットを主題とした、パルジンガーによる《国際健康週間》は、1926年の作品である。

トミ・アントン・パルジンガー《国際健康週間》1930年5月『ゲブラウスグラフィック』第7巻第5号 

 一方、本作を翻案とした日本の独歩による《健康週間 長期建設 健康第一》が世に出たのは、1939年のことであり、両者の時間的開きは10年以上となる。戦前期の日本においては、外国で編集発行されていた広告専門誌は貴重な存在であり、関係者は折に触れて過去の号も参照していた。

独歩《健康週間 長期建設 健康第一》1939年 函館市中央図書館 475

 ただし、今回の例はパルジンガーによる作品が、時間が経過しても色褪せない、普遍的な魅力を持っていたことを表しており、実際パルジンガーの作品は当時の日本人図案家に、しばしば翻案とされた。

元ネタとはまったく異なる製作意図

 ルール川を擁する町並みを中央に、その左右にシュティフト教会と、ルール工業地帯を象徴する工場を配した、グランドバッハによる《エッセン》は、観光ポスターの公募における入賞作品である。

ヴィリ・ファルタン・グランドバッハ《エッセン》1936年10月『ゲブラウスグラフィック』第13巻第10号

 一方、1939年6月の《支那事変国債》は、1937年11月を初回として、以降は2か月おきに新たなものが販売された、戦時債券の発売を知らせるためのポスターである。

《支那事変国債》1939年6月 昭和館 H19-0991

 両者の製作意図は全く異なるものの、後者は前者を翻案にするに当たって、全体の構成をそのままに、モティーフをしかるべきものに置き換えることによって、作品を上手く成り立たせている。後者の作者は不詳ながら、作品からはかなりの経験が感じられる。