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「いまだ生を知らず、いずくんぞ、死を知らん」

 同様に、「死後については分からない」という立場を取りながらも、「死後の世界」があることを予感し、期待し、その思想を語ったのが、スウェーデンの海洋学者、オットー・ペテルソンであろう。

 彼は、93歳で亡くなる直前、やはり海洋学者であった息子に、次の言葉を残している。

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「死に臨んだとき、私の最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかという、限りない好奇心だろう」

 彼は、科学者でありながら、やはり「死後の世界」が存在することを、どこかで信じていたのであろう。

 ちなみに、この問いに対する答えを優雅に避けながら、香りを遺したのが、神学者であり医者であった、アルベルト・シュバイツァーである。

 彼は、「あなたにとって、死とは何か」と訊かれ、次の答えを遺している。

「私にとって、死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」

「死」を語る三つの視点

 このように、古今東西の思想家、宗教家、科学者は、「死」について様々な思想や言葉を遺しているが、人類の歴史を振り返るならば、「死」に関する書物は、無数に世に出ている。それらの書物は、大きく三つに分けることができるだろう。

 第一は、「宗教的な視点」から「死後の世界」を語ったものである。

 その最も有名なものの一つが、『チベット 死者の書』であるが、この書は、死者が「死後の世界」において、どのような体験を与えられ、それにどう処すればよいかを、仔細に語っている。同様の書に、『エジプト 死者の書』などもある。

 また、様々な宗教が、「死後の世界」が存在することを前提として、その思想を語っており、キリスト教は「天国」を論じ、仏教は「極楽浄土」、イスラム教は「ジャンナ」を語ってきた。

 第二は、「科学的な視点」から「死後の世界」が無いことを語ったものである。

 その多くは、我々の意識は、肉体の一部である脳の活動にすぎず、もし、この肉体が生命活動を終えれば、それに伴って、脳も機能を停止し、意識も消え去っていき、すべてが「無」に帰する、ということを語っている。

 第三は、「医学的な視点」から「死後の世界」の可能性を示唆したものである。

 その代表的なものが、「臨死体験」について語った書物である。