多様性の社会では「心の教育」は通用しない
ブレイディ 実は『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を出版してすぐの頃、道徳の教科書に使いたいのでメッセージを書いてほしいと依頼されたことがありました。「エンパシー」という言葉が「他人にもっと優しくしましょう」といった意味で取られてしまったんです。
工藤 なるほど。私も新著『子どもたちに民主主義を教えよう』の中で「心の教育」の問題に触れたのですが、日本では明治時代から、知育・徳育・体育という独特の伝統があります。このうち、徳育というのが、シティズンシップ教育ではなく、「思いやりの心を教え込む」教育へとすり替わってしまっているんです。「心はみんな自由でいい」という世界標準の考え方から全く逸脱してしまっています。
ブレイディ 心に踏み込まれたくないですよね(笑)。
実際、現代のイギリスは民族的にも宗教的にも多様です。家庭で英語を喋らない人も多いし、保護者のバックグラウンドも実に様々。「思いやりの心を持とう」といったフワッとした指針に頼ることはできません。「思いやりの心」のイメージがあまりに違うからです。だからこそ、具体的に想像することが大切です。あの人の家庭で信仰している宗教はどんなものなのか。この人はなぜイギリス国外からやってきたのか。そこで何があったのか。その時に、エンパシーという他者への想像力が重要なんです。
人権感覚が乏しい日本の教育
工藤 おっしゃる通り、日本はあまりにも「思いやりの心=心の教育」に傾きすぎていると感じます。ボタンの掛け違いがはじまったのは、「教育の目的」でした。1947年に制定された教育基本法は2006年に改正されましたが、なお変わってない箇所があります。それは、教育の目指すところとして「人格の完成」を掲げている点です。「人格の完成を目指して資質をつける」というのが今の日本の教育の目標とされているんです。
「心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」という文言も1947年から変わっていません。これもどうでしょうか。生まれながらに障がいを持って生まれた子もいますし、そもそも、心身ともに完全に健康であるという状態が達成可能かどうかさえも分からない。にもかかわらず、こういったことが目標として法によって据えられてしまっているのです。
ブレイディ 人権感覚が乏しいとも言えますね。