『「俳優」の肩ごしに』(山﨑努 著)日本経済新聞出版

 世間は若い才能が好きだが年を経て「劣化」するのを見るのは嫌いだ。あまりに嫌いだからそれはもう呪いになり「経年したら劣化する」と思い込んでしまっている。アンチエイジング、などという。老害、などという。もちろんだから病は何より恐ろしいし死ぬなんてもってのほかだ。その考えこそが「劣化」なのだと気がつかない。経年と劣化は当たり前だが別のものだ。劣化に経年は関係ない。人間は経年したら壊れるそんな機械みたいなチンケな装置じゃない。

『天国と地獄』で世間に颯爽と現れた若者は慢心しないから(とても重要なことなのだきっと)するすると凄みを増し、「ふけたね」などと早くもいわれる40代で『早春スケッチブック』、50代で『マルサの女』、60代で『リア王』、70代で『おくりびと』、(もちろんもっと山ほどの名作がある)といった代表作を次々に残して80代でこの瑞々しい自伝を書いた。

 老化は劣化だと信じてやまない年寄りの自伝はどれも同じで全ては自慢だ。未来どころか今もないのだから過去を自慢するしかない。この本は違う。

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『「俳優」の肩ごしに』というタイトルからわかるように山﨑努という俳優の肩ごしに来し方を見るというのが本書の仕組みだ。ふむふむと簡単に理解しかけるがよく考えてみると不思議な仕組みだ。借りた肩は俳優山﨑努の肩だとして、ならそれを覗き見ているのは誰だ。もちろん著者山﨑努ということなのだけど、それは1つが2つに割れているというのでもない。ときには重なるし、もしくは肩が消えて、覗き見ていたものも消えて、もう1つ別の視点があるかのようにもなる。振り返りというよりは生き直しているようでそれはまるで演技だ。

 演技には「役」というベースがまずある。役という括りのないものでも「役」はある。本書でいえば「肩ごしに」という仕組みが「役」だ。それがあるから自由に、逸脱したってかまわない、いつでも戻れるベース、「役」があるから何度でも生まれ直せる。生まれ直しだから余裕などなく自慢にならない。それでも著者は「身の上話は夢の話と似ている」と書く。他人の夢の話はつまらないということだろう。だから「ちょっとびびる」。だから本書は瑞々しい。

 本のほとんどはじまりの方にこう書かれている。

【俳優を生業とするようになって60年余りになるが、これまで自分の役を自分で選んだことは一度もない。】

 わたしたちは「わたし」を選んで生まれて来たわけじゃない。「わたし」に生まれた「わたし」は「わたし」を生きるしかない。嫌だと死ぬか諦めて生きるか「役」は選べない。おそらく山﨑努さんは本書で、生涯で初めて自分で自分の「役」を選んだ。というより、作った。そして演じて見せてくれた。

やまざきつとむ/1936年千葉県生まれ。都立上野高校卒業後、俳優座養成所を経て文学座に入団。60年、三島由紀夫の戯曲『熱帯樹』でデビュー。その後、劇団「雲」創立に参加。のち独立。著書に『俳優のノート』『柔らかな犀の角』がある。
 

やましたすみと/1966年兵庫県生まれ。劇団FICTION主宰。「しんせかい」で芥川賞。近著に『君たちはしかし再び来い』。