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 トヨタに入社して20年。46歳だったから、65歳まで働けるとすれば、あと約20年ある。折り返し地点に立っていた。

 味方がいないわけではない。妻が反対したときに中学二年生だった長女は、「お父さんをひとりで残すわけにはいかないよ。家族で一緒にいよう」と言ってくれた。これでうまくいかなかったらただの間抜けだな、と思っていたときに、先輩にかけられた言葉が思い浮かんだ。

その言葉とは…

「今の会社に戻ってきても、お前は決して幸せにならないよ」

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 自動車業界には電動化、自動化、コネクテッド、シェアリングの大波が押し寄せ、100年に一度の変革期を迎えている。創業家社長の章男が「勝つか負けるかではなく、生きるか死ぬかの闘いが始まった」と訴える危機意識のなかで、風変わりで物言うエンジニアが煙たがられるようになっている。少し前まで社内はパワハラまがいのこともあったが活気があり、伝説的な技術者がいた。その系譜に連なるひとりが多田だった。

「お前はどっち向いて仕事してんだ」

 と甲斐はよく多田から叱られたものだ。甲斐が会社の都合に合わせて丸く収めようと思ったり、安易にコストを削ろうと思ったりしていると、

「俺や会社を満足させようとしてるんだったら、それは大間違いだぞ。お客さんがどう思うかを考えろ」

トップに忖度するあまり生まれたよどんだ雰囲気

 そう言われてはっと我に返る真っ直ぐな感情が、甲斐には残っていた。そして、忖度から無縁な多田をチーフエンジニアから外し、後任不在ということも甲斐を落胆させた。

──あれが実績を上げた人に対する扱いなんだろうか。

 チーフエンジニアがいないトヨタなんてあり得ない。それでいい車ができるのか、とも甲斐は思った。

「本物の車作りをしたことがない人や、Zという組織がなぜ必要なのか理解していない人たちが上に立っているのではないか」という声は幹部やOBにもあった。いまのトヨタムラには、周囲がトップに忖度するあまり、チーフエンジニアやZチームが脚光を浴びることを嫌う雰囲気が漂っている、という厳しい指摘さえある。技術者にスターはいらない、という空気である。