このようなとき、哲学はしばしば語源を調べてみるものである。いちおう日本語から始めてみると、「観光」という熟語は、英語の「ツーリズムtourism」あるいは同語源のヨーロッパの言葉の訳語として明治期に使われ始めたことが知られている。この熟語は『易経』に由来し、もともとは「国の威光を観る」という別の意味で使われていた。それゆえこの語源は、観光の概念について考えるときあまり参考にならない。
そこで「ツーリズム」のほうの語源を調べてみる。「ツーリズム」は、「ツアーtour」に「イズムism」がついて作られた言葉である。前者の「ツアー」は、いまは単独で旅行を意味する言葉となっている。しかし、辞書を調べると[★3]、じつはこの用法そのものがあまり古いものではないことがわかる。tour は、古フランス語のtor などを語源とする言葉で、旅行の意味をもつようになったのは17世紀半ばごろらしい。当時のイギリスの貴族には、若いころにヨーロッパ大陸とりわけイタリア半島をめぐり、ヨーロッパ文化の継承者としての自覚を深める教養旅行の習慣があった。それが「グランドツアー」と呼ばれている[★4]。そのtour にism がついたtourism が現れるのはようやく19世紀初期のことだ。
この歴史からわかるのは、観光(ツーリズム)はかなり新しい言葉だということである。それはあくまでも近代に生まれた言葉なのだ。
「観光」とは近代以降の社会にしか存在しない
観光は近代以降の存在である。これは実際、多くの学者が一致している認識でもある。ぼくはさきほど観光学には観光のはっきりとした定義がないと述べたが、むろん個々の研究には参照すべきものがある。そのひとつ、ジョン・アーリとヨーナス・ラースンによる著作『観光のまなざし』は、「観光者である、ということは「近代」を身にまとう、という特質の一環である」と記している[★5]。旅はむかしから存在した。巡礼も冒険もむかしから存在した。けれども観光は近代以降の社会にしか存在しない。2世紀のローマ貴族がユーフラテス河に「観光」したとか15世紀のヴェネチア人がパレスチナに「観光」したとかいった表現は、比喩としてはいいけれども、けっして正確なものではない。