だから、一人一人を多様な状況に想像的に置いてみて、それぞれの場面でどういう働きをするか、よく見切って、その上で、その人が一番輝くところで力を発揮してもらい、その欠点や弱さができるだけ表に出ないようにする。
それは「正しい人間/間違っている人間」「使える人間/使えない人間」をデジタルに切り分けることとは違います。一人一人について、どういう場面で能力を発揮し、どういう場面では使えなくなるか、それを見た上で、適材適所に配する。それが「人を見る」ということだと思います。
結果的に集団全体の知的活動を劣化させている人々
――SNS時代、単純に人や物事を全否定する傾向が強まったように感じます。
内田 一つの論件について、一つの事実誤認や不用意な発言を取り上げて、部分的な非を以て、その人の全業績や人格を否定したりするのは大変危険なことです。でも、SNSではそれがふつうに行われている。
例えば辺野古基地問題の「座り込み」をめぐる嘲笑的な投稿がありましたね。長い歴史的な文脈の中でその価値を評価すべき運動を、ある一瞬を切り取って全否定してみせる。これはことの当否よりも、「こういうやり方」が効果的であるということを周知させたという点で非常に罪深い行為だったと思います。
たしかに、部分を取り上げて、全体を否定するというのは、批判の費用対効果はたいへんによい。わずかな情報発信で、数十年にわたる運動の全体の価値を否定することができるんですから。
でも、この費用対効果のよい「切り捨て」は、複雑な現実をただ単純な「お話」に落とし込んでいるだけで、少しも問題を解決していない。たしかに複雑な現実は単純な「お話」に切り詰められて、端の人間にとってはわかりやすくなったけれども、現実は相変わらず複雑なままです。複雑な現実と単純な「お話」の間の乖離はただ拡大するだけです。むしろ話を単純化したせいで、どこに問題があるのかも、どのような問題解決の手立てがあるのかも、真剣な思考の対象にならなくなる。
つまり、こういう人たちは話を簡単にすることで、よけい問題を複雑にしてしまっているし、問題に取り組む能力も損なっているわけですから、結果的には集団全体の知的活動を劣化させていることになる。