内田樹が考える「知性的な人」
――確かに変に話を単純化すると、よけいに分からなくイシューも多いですね。
内田 どんな論件についても、「こうやれば相手を黙らせられる」という小手先の技術だけに長けた人たちが増えています。でも、そんな小技をいくら駆使してみても、「黙らせられた」方は納得したわけでも、説得されたわけでもありません。対話の回路が断ち切られて、問題についての合意形成がますます困難になっただけで、問題解決には1ミリの役にも立たない。
「それは個人の感想でしょ?」というのは、さきほどの「真理のジニ係数」から言うと、数値を限りなく0に近づけ、「知のアナーキー」に向かう道筋です。全員が「個人の感想」を語っているだけで、この世には万人が承認するような真理は存在しないという知的な虚無主義です。僕はこれに反対しているのです。「個人の感想」であっても、かなり適切に現実を観察して、適切に分析している知見もあれば、まったく現実と無関係な「脳内妄想」もある。それらを「個人の感想」としてひとしなみに扱うことに僕は反対しているのです。「個人の感想」にも、ピンからキリまでがある。その差を適切に見届けることが知性の働きだと思うからです。
僕の個人的な定義ですが、「知性的な人」とは「その人がいるお陰で、集団全体の知的パフォーマンスが向上するような人」のことです。その人がいるお陰で、メンバーたちの知性が活性化して、次々と「新しいアイディア」が提出され、あちこちで対話が始まり、集団全体の合意形成に向かってゆくのであれば、その人は「知性的な人」と呼ぶことができる。
逆に、いくら個人として知識があっても、頭が切れても、弁が立っても、その人がいるせいで集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまう場合、僕はそういう人を「反知性的な人」だとみなすことにしています。そういう人っているでしょう。言うことだけ聴いていると賢そうに聞こえるけれど、その人が口を開くと、みんな下を向いて押し黙ってしまうというようなタイプの人って。僕はそういう人を「知的」だとは思わない。