香水を振りかけた一通目の手紙はこんな断りから始まっている。当時27歳の光彦から届いた便りは、横書きの便箋に黒のボールペンで丁寧に綴ってあり、しっかりとした読みやすい文字である。文章も平易で簡潔で、判りやすい。たとえば暴力の持つ達成感、陶酔感はこんな言葉で綴る。
〈傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました〉
祖父の左目を蹴り潰した
暴力に取り憑かれた男、関光彦は1973年1月、千葉県松戸市に生まれている。母親は教育熱心で、幼いときからスイミング、ピアノ、英会話を習わせた。5年後、弟も生まれ、傍目には幸せそのものの家族だったが、実は他聞を憚る宿痾(しゅくあ)を抱えていた。遊び人の父親の猛烈なDVである。光彦は全身に生傷が絶えず、大好きなスイミングに通えないこともしばしば。父親の放蕩は加速するばかりで、酒を浴びるように飲み、若い愛人と高級外車を乗り回してギャンブル三昧。消費者金融、闇金の借金は億単位にのぼった。
一家はあっけなく崩壊し、母親は息子2人と共に、葛飾区や江東区を転々とした。食事にも事欠く極貧生活の中、債鬼に追われ、夜逃げしたことも。幸い、鰻店チェーンを経営する祖父の援助があり、母親はなんとか生活を立て直すも、光彦は小遣い銭欲しさに浅草の繁華街をうろつき、かっぱらい、賽銭泥棒を繰り返した。
中学に入ると、口うるさい母親を殴り倒し、幼い弟に手ひどい折檻を加えた。外ではワル仲間とつるんでケンカ、恐喝、窃盗の日々。
高校受験には当然ながら失敗。渋々滑り止めの高校へ入学するが、2年に進級後「こんなレベルの低い高校では大学に進めない」と中退。大恩ある祖父とも衝突し、左目を蹴り潰すという信じ難い凶行に及ぶ。光彦の暴走を止める者はもう、どこにもいなかった。
「猫をかぶっていた」と告白
「逮捕された当時から、いまのように普通に会話ができたわけではありません」
刑務官立ち合いのもと、東京拘置所の面会室で相対した光彦は、質問の一言一言にうなずく、穏やかな男だった。話す内容も理路整然としており、身長180センチ近い骨太の身体も相まって、スポーツマンタイプの物静かな青年といった印象である。
「面会に来た親とは怒鳴り合い、よく注意されていました。つくづく、世間知らずの子供でした」