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東大生が選んだもっとも尊敬する学者・南方熊楠 その奇行の真相とは(前編)

東大生が選んだもっとも尊敬する学者・南方熊楠 その奇行の真相とは(前編)

フランス文学者・桑原武夫の南方熊楠論

2018/05/04

source : 文藝春秋 1952年12月号

genre : ライフ, 読書, テレビ・ラジオ, ライフスタイル, 歴史

note

近代資本主義へのほほえましい反抗

 彼は身分的な封建制を讃美するものではなく、むしろ古代主義とでもいうべき立場にある。しかし彼の古代風の淳風美俗への愛着にかかわらず、近代あるいはニセ近代の風は容赦なく紀州の田舎まで吹きすさばずにはおかない。

 そこで彼はカンシャクをたて荒びて「小生は大英博物館にて社会学を専攻せしものにて、クロポトキン公なども知人に有之、随てその事を知れる輩よりは毎度種々の誘惑(悪くいえば)にかかりしことあるも、今日迄社会問題や思想の方に口出せしこと少しもなし。然しながら右述の次第(資本家であった彼の一族による冷遇および神社の林の破壊――桑原)より考るに、富国の所謂資本家なるものは欧州の資本家と事かはり、全く公共精神といふこと少しもなく、私利私慾で、まうけさへすればよしといふ根生のものなりと分り申候。然る上はかかる資本家は骨肉とても恕すべきに非ず、一日も早く撲滅するを要する儀と考るに付、上京して面識ある加藤首相に謁し、此ことを述べたる上、資本家撲滅を主唱せんと存候」(8・77)などと叶ばざるをえないのである。

 資本家撲滅を三菱資本系の加藤高明に進言するというのはほほえましいが、資本家が利潤を追求するのは洋の東西を問わない。ただ、その外にあらわれたところでは日本の方がはるかにエゲツナイ点のあることは事実だが、そうなる理由の究明は南方によってなされていない。

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幕末の下関 ©文藝春秋

ロマンチックな神社観

 彼が一身をなげうって反対した神社合祀は、近代的政治家だった原敬内相の合理主義的窮策だった。それの最初の目標は由緒正しからざる、新出来の淫祠などの廃止にあったらしく、それは南方も認めたところである。

 ところが平田内相となって、本旨が失われ、法令が末端に及ぶと、ただ神社財産の多少によって整理せんとすることになり、三重、和歌山両県のような歴史の古い土地では古代からの神社がとりつぶされるようになった。

 古代風な常民の郷土の神社に対する信仰と行事とを愛する南方が、民衆の心理を無視した上からの官僚的機械的統制に反発して、猛烈な反対運動をおこしたのは当然であった。その反対理由は白井光太郎への手紙にくわしいが、一ばん力点のかかっているのは、神社の廃止によってそれに附帯した森林が乱伐され、土地に固有な珍らしい動植物が絶滅するというところである。

 それは彼の学問の対象と結びついているのだ。しかも我田引水的な印象は全く感じられず、純情のみにあふれている。その行動は政治的とならざるをえぬが、原動力となっているのは、あくまで学問的情熱である点が彼の特色である。

 彼は神社の合祀は愛国心を弱めるといい、合祀率の一ばん高い三重・和歌山両県の境にある「新宮町に大逆事件に最多数(6人)の逆徒を出」したことを指摘して政府を論理的にへこませた。(8・116)。

 彼が幸徳秋水を愛したとは絶対に考えられぬが、彼がしばしば大逆事件をもち出すのは、当局の政策の矛盾をつくためと、一方彼の運動が猛烈すぎて大逆事件の党と誤解さえされたことに対する自衛上の作戦だったろうと察せられる。

神社に抱いた理想の姿とは

 ともかく彼が守ろうとしたのは古代風の神社信仰であって、電車の中から新出来の護国神社に礼拝を強要したような、非伝統的な軍部的信仰ではなかったにちがいない。彼が、西洋婦人を日本人の男が愛するとき、彼我の道具に大小あることをいうのに、あたかも「九段招魂社の大鳥居の間でステッキ一本持ってふりまわす」に似たり(8・67)、などと戦争中なら引っぱられそうなタトエを使っているところをみても、彼の神社観は決してコチコチのものではなかった。

 彼は古い神社を守ろうとしつつ、同時に今の神官に人なく、「何れも無学無頼の者のみなり」とし、そういう連中は進化論は「天皇陛下を猿の子孫などといふもの、国家に対して不忠など自分の鄙劣心から飛でもなきことを言出し、教育改進に障害を及ぼす輩のみなり」(8・101)と断じ、彼らに民心を指導させるのは「娼妓に烈女伝を説しめ」るに異ならず、とまでいっているのは面白い(8・172)。

 彼はオーギュスト・コントにならい、窮極において神官があたかもヨーロッパの村の司祭のように世間一切のことの相談役になることを望んでいるが(8・198)、それが現代日本において空想にとどまらざることをえぬことは、そうした伝統のつよいフランスにおいてすらすでに不可能なことを見ても明らかである。

 要するに南方の社会に対する意見はロマンチックないし空想的たるを免れないが、ただその強烈なロマンチックな情熱が彼の学問を支えていることを忘れてはならないのだ。