詩人的科学者
そこで彼の学問いかんを改めて考えねばならない。彼をたんなるもの知り博士と見てはならぬことはさきにのべたが、彼は10歳で『文選』を暗記したといわれる稀代の記億力をもち(その点匹敵しうるのは恐らく内藤湖南くらいであろう)、強力な読書家であったから、一身にして百科全書をかねる風があり、そのため雑学者ととられやすい面をたしかにもっている。
しかし、それを弁護せんとしてかんたんに否定することは、かえって彼の学問の本質をあやまるであろう。理論的自然科学はいざしらず、人間をあつかう人文科学においては学者の第一の条件として、たくさんのことを確実に知っていることが不可欠なのである。
人間の思想と行動は無数の関係によって規定されているのであって、一専門分野の知識しかもたないものは真の人文科学者とはいえないのである。理論は尖鋭だが実例はさっぱり出せないような(たとえば、俳諧を擁護するといいながら記憶力のよわい西洋文学者の私の半分も芭蕉や蕪村の句をそらんじてないような)学者がふえてくるさい、このことは特に強調せねばならない。
その点、南方の博識はまず博識そのものとして高く評価せねばならない。彼が日本の古文芸にたぐいなき解読力をもち「今昔物語」についてはその右に出るものがないといわれるのも(折口信夫氏)、彼の博識に支えられてのことと思われる。
もちろん、逆にものをたくさん知っていれば学者だといっているのではない。「個人として物を多くよく覚えて居るも、埒もなき事のみ知つた許りでは錯雑な字典のやうで、何の役に立ず」と彼は指摘し、「日本の学者は実用の学識を順序し、整列しおきて事が起るとすぐ引出して実用に立てるといふ備甚だ少な」いことをなげき、それでは日本の科学は徳川時代の本草、物産の学にすら遙かに劣ることになるという(8・70)。
すなわち彼は単なる物知りを軽蔑し、学問は国民のための実用の学でなければならないとするのである。アメリカの農務省植物興産局長が彼を招聘せんとしたのは、たんなる博学者を求めたのではなかつたのだ。
南方を「学聖」と大げさに言わぬがよい
しかし彼のいう学識の整理には理論【セオリー】が必要ではなかろうか。ところで彼にはルソー、ダーウィン、マルクスなどのようにその出現によつて以後の学界の動向を一変せしめるような理論を見出しがたい。
この点が、彼を一流の近代的学者ということを妨げるのであって、彼の愛好者もいたずらに「学聖」などという大げさな言葉を使わぬ方がよいと思われる。(もっとも西洋人の理論の受け売りだけで学者を気どっている、日本の人文科学者の多くに彼の無理論をとがめる資格のないことは言うまでもない。)
彼が一本の理論体系をもたぬということは、観念的な理論による公式的ワリキリの警戒から出たことであり、それはイギリス風の健全な経験主義と密接な関係をもつと思われる。
それは彼のつとめた大英博物館を支えているような精神、「ノーツ・アンド・キリース」といった雑誌をはぐくんでゆくような精神、この国にはじめて民俗学なる学問を誕生せしめたところの精神、とつらなるものがある。
彼は士宜法龍師への手紙で、師が神秘説をとなえるのを反駁して科学主義を力説しており、科学に対する19世紀的確信はつねに失わなかったが、彼自身の自然科学(動植物)においても彼は、研究室内において顕微鏡、薬品、計算尺等を利用ずるバイオロジストというより、自ら野外に観察採集を行うナチュラリストの立場をとっており、昆虫学におけるファーブルと同じ系統に属している。
そのことは彼らを理論的科学者よりも詩人に近く位置せしめるものであり、南方が粘菌の世界的コレクショナーであると同時に、日本における民俗学の輝かしい先駆者となりえた理由の一つである。