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自分につらなることを発見できる

若かりし南方熊楠氏 ©文藝春秋

 また、近頃の言語学の本には、人間が言語をもつのは人間社会の中で育ったからであり、また赤ん坊がアババというような無意味な発声をしているのは無用のようで実は発声器官のトレーニングになっているのであって、もし人間の子が人間に育てられなければ言語をもたなくなるとして、ワイルド・チャイルド(野生児、野獣、主として狼に育てられた子供)が、例証としてあげられている。

 その最も早い記録としては、1799年フランスのアヴェロンで見つかった野生児をイタールという青年医師が教育して言語を教えこんだ報告がある(最近、『アヴェロンの野生児』として古武弥生氏の譚が出た。牧書店)。医師の献身的努力にもかかわらずこの野生児の言語能力はわずかしか発達しない。人間の子供はある年齢をすぎてから人間社会に奪い返えされても、アババの練習不足のためもう手おくれなのである。

 その他いくつかの例を知つて私は大いに興味をいだいていたのだが、中学時代病床で愛読した南方全集第一巻の『十二支考』の虎のところを13年ぶりに読み返していると、ポールの『インドのジャングル生活』にもとづいて、野生児の例が数多くあげてあり、すべて狼などに養われた児はものをいわぬことが指摘してある。さらに日本における野生児の伝説も収録されているので大いに驚きかつ嬉しく、ポールの本をさがして読んでみたいと思っている。

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 以上新旧2つの私事を語ったのに他意はない。少年または文盲の人でないかぎり、日本人は誰しも、南方の本をよむとき、そこに必ず何らか自分の生活なり思想につらなるところのものを見出し、それについての解答ないし教えをうけるの喜びを見出すに違いない、ということを言いたかったのである。まずこころみに一読されたい。

奇人か学者か

 しかし、そういっただけでは、南方をたんなる物知り博士と思わせるおそれがあるかも知れない。彼は少年にしてアメリカに渡り、苦学力行、浮浪人と交わり、ときに曲馬団につとめるようなこともし、さらにイギリスに行ってからは孫文などと交わりつつ屋根裏の哲人のような生活をしたのであったが、けっきょく彼の本領は学者ないし学者的エクリヴァンにあったのである。(これを文筆家と訳したのでは感じがずれる。)

 したがつて彼の評価は何よりも学者南方としてなされねばならない。彼には孫文のいう「奇人」的な面もたしかにあるが、その奇人性をも彼の学問の中でとらえられるべきであろう。

 その点、佐藤春夫氏の『近代神仙譚――天皇・南方熊楠・孫逸仙』は、通俗な奇人観をすてて人間南方を描き出すという意図の評伝的小説だというが、やはり成功してはいない。南方は大きすぎて三題ばなしの一項目とはなりがたいのである。天皇も孫文も、このさいさしみのツマとして扱わるべきなのに、著者佐藤氏自らが宮中に伺候したおりのありがたい描写が170頁中30頁にも及ぶという構成では、とうてい無理である。

 南方が御進講をしたことは事実であり、また彼はそれを光栄としたことも間違いはないが、彼の学問にとってそれはやはり一挿話にすぎず、そのようなことがたとえなかったとしても、彼の学問は大きかったと見なければなるまい。主客テントウした佐藤氏の本は少なくともこの学者を若い世代に近づける力はないであろう。

資本家撲滅を進言

 南方は天皇を尊敬していた。坂本龍馬などの維新の志士たちが、天皇を権力闘争における一つの機具とみていたのとことなり、明治のすぐれた人々はごく少数の例外をのぞき、天皇を尊崇していたのであつた。南方の態度はきわめて自然なのである。

 ただ彼にはイギリスの王室観が多分に影響していると見るべく、戦前戦中強制されたような軍人的に神格化された天皇崇拝の気持のないことはいことはいうまでもない。

 彼はロンドンにいたころ「西洋の耶蘇教の特色として私の専ら賛称するは、其平権自由と申す一事に御座候……されば私はなにとぞ東洋の一弊事たる此事(自由平等なきこと)のみは去り度き事と存申候」(9巻137頁)と書いている。

 彼は「萬古不変の国体」の護持といった言葉をよく――とくに神社合祀反対運動のおりに――使うが、しかも彼は日本の神道がタブー・システムと密接にむすびつくものであることをよく知っている(8・119)。