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「病気なんかじゃないでしょ?」

 私が『依存症』(文春新書、2000年)を書いてから24年が過ぎたが、残念ながら日本における依存症理解は当時からほとんど変化していない。

 振り返ってみればもう50年以上も「アルコール依存症は病気です」と訴え続けてきた気がする。1970年代半ばまでは、慢性アルコール中毒が診断名だったからアル中と略されてもしかたがなかった。1977年に依存症という言葉が誕生したときに、これで「アル中」という偏見まみれの言葉が無くなり、依存症は病気であることが広がるだろうと期待した。

 それは甘かった。「ギャンブル依存症だ」とカムアウトした水原氏に対して、「彼も病気だったのか」と思う人は少なく、やっぱり依存症ってひどいやつなんだ、平気で人を騙すんだ、人間のクズだ、というのが一般的反応だったろう。大谷のイメージが上がれば上がるほど、巨額をだまし取った水原氏は、自らの行いをギャンブル依存症という病気のせいにする人間失格者だとされるのだ。

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 このように、50年近く経っても依存症のイメージはほとんど変わっていない。それは残念で悲しいことである。

 アディクションの専門医がことあるごとにメディアで「依存症は病気だ」と発言してもそれがなかなか根付かないのは、何らかの理由があるからではないか。それはアディクションの「回復者」に対する日本社会の厳しさにもつながっているのではないか。

「本人よりまず家族を」の大原則

 依存症が家族を困らせ傷つけるというのは、援助者にとって常識である。したがって本人よりも周囲の家族をまず援助することが、結果的に本人を治療するための近道になる。1999年に私が著した『アディクションアプローチ』(医学書院)の中には、アディクション特有の援助論と方法が提示されている。そのひとつが「本人より家族を」である。

 アルコール依存症のイメージには飲んで暴れる姿が付いて回るが、飲み始めると止まらず意識がなくなる人もいる。失禁して居間で動けなくなった父親を家族でひきずって寝室に連れて行かなければならない。このような静かだけれど家族が困り果てる依存症もある。家族の中心である父親が役割機能を全く果たさないどころか、妻子は父親の飲酒しだいで地獄が訪れるかもしれないという恐怖や緊張にさいなまれるのだ。「家族は安心・安全の場」という子育てのうたい文句の正反対が、アルコール依存症の家族なのである。

 また、父親の飲酒問題は外部に漏れてはならない。酔っていないときの父親は総じてまじめなので、母は近所の人に知られないように隠し、子供も暗黙に「言うな」というタブーを感じとっている。子どもたちは幼いころから秘密を抱えながら生きることになる。

 家族(配偶者、子ども)をまず援助するのは、困り果てて「助けてほしい」という思いを抱えているからである。

※依存症治療の基本やや海外で「回復者」がどのように扱われているか、そして日本社会が「回復者」に理由について解説した全文は『週刊文春WOMAN2024夏号』でお読みください。