しかし、実際には試験対策やレポート執筆などの「要領のよさ」がかなり影響していて、単位は充足した、卒業証書や学位は獲得したと言っても、その資格・学位に見合った実力が備わっているかは大いに疑問です。「分数の計算ができない大学生」が揶揄されることがありますが、高校の教科書に書かれた知識を正確に持っている人は滅多にいません。
中学校、いや、小学校の教科書の内容でも、怪しいものです。
AI時代に小中学校の漢字テストは必要か
そして、AIと共存する社会では、こうした知識が必ずしも求められなくなるという傾向もあります。たとえば、小学校卒業までに1026字の教育漢字、中学卒業までに2136字の常用漢字の読み書き能力が本当に必要なのかは、検討すべきテーマですね。
この本もワープロソフトで書いているわけですが、手書きしかなかった時代とは、人間に求められる能力が明らかに変化していると感じます。この本の読者も、手書きで漢字を書く頻度は、年を追うごとに低下しているのではないでしょうか?
筆や鉛筆で、「とめ」「はね」などが正確にできているか、正しいとされる書き順で漢字が書けるかなどを、すべての子どもたちに要求する合理性はもはやありません。
また、最終学歴の獲得には、本人の資質や努力以外の要素も大きく影響します。アメリカなどでは、私立学校の学費が高いため、恵まれた家庭の子どもが高学歴を獲得する一方、所得の低い家庭では高学歴を獲得することが難しいと言われてきました。過去50年の傾向を見ると、日本もそのパターンになっています。
「立身出世」のシナリオが崩れてきている
そもそも大学に入学するまでの経済的なハードルが高くなってきました。
1971年まで国立大学の授業料は年額1万2000円に据え置かれていました。
それが1972年に一気に3倍の3万6000円に、1976年に9万6000円、私が入学した1978年に14万4000円、2006年からは53万5800円になりました。それぞれの時代の物価水準を考慮に入れても、私立大学との差は小さくなり、国公立大学の授業料は安い、とは必ずしも言えなくなりました。