5分ほど歩いて賑やかな商店街から外れると、イトーヨーカドーに巨大なマンションが見えてくる。その周囲も住宅地だ。ふたつの路線が交わる駅を中心に、近くには大きな商業ビルと賑やかな商店街。少し離れたら住宅地へ。
住宅地の中には、西から東へと小さな川も流れている。これが町にほどよくのどかさを加えていて、実にバランスの取れたベッドタウンといっていい。少し都心から離れているきらいもあるが、交通の便なら申し分はない。それでいて、武蔵小杉などと比べればいくらか庶民的な印象も抱く。暮らしやすさという点でもケチのつけどころがなさそうだ。
この町は、いつからこのような姿になったのだろうか。話は、鉄道がまだ開業するより前の時代にさかのぼる。
運命を変えた「2本の街道と1本の用水路」
江戸時代、溝ノ口村と呼ばれていた武蔵溝ノ口駅周辺の一帯は、2本の街道が交差する町だった。ひとつは大山街道、もうひとつは府中街道である。
大山街道は、現在の国道246号のルーツだ。江戸から世田谷を抜けて厚木、そして大山へ。大山参詣のルートであり、東海道の脇往還としても賑わった。だいたい東急田園都市線と並行しているのも特徴だ。
もうひとつの府中街道は、古代武蔵国の国府があった府中と多摩川河口の港町だった川崎を連絡する街道で、鎌倉時代には鎌倉に通じる街道の一部でもあった。府中と川崎というなら、南武線そのものである。
この2本の街道が交差する地点が溝ノ口。ちょっとした宿場のような位置づけで、大山街道沿いを中心に市街地が形成されていたという。
そして、江戸時代の初めには二ヶ領用水が整備されている。住宅地の中を流れていた小さな川がそれだ。徳川家康が関東に入ってすぐに整備がはじまった用水路で、完成後は多摩川沿いの低地に過ぎなかった溝ノ口村を田園地帯に生まれ変わらせた。
2本の街道と1本の用水路。これが、溝ノ口の運命を作ったのである。