同世代のミュージシャンとして様々な形で共演し続けた真心ブラザーズ。ふたりが奥田民生と急接近したきっかけをきくと……。(全2回の前編/続きを読む)
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――ユニコーンのデビューが1987年で、真心ブラザーズは89年です。民生さんに対して、同世代の仲間意識のようなものはあったんですか?
YO-KING いや、ユニコーンは表側で、こっちは裏側だからね。バンドブームでいうと、ユニコーンやジュン・スカイ・ウォーカーズが表で、下北沢は裏(笑)。しかもアルバム1枚目、2枚目あたりはアイドル的な感じだったから、正直なところ聴いてみようって気にはならなかった、あの頃は。
桜井秀俊 4枚目のアルバム『ケダモノの嵐』(90)のCD帯にさ、丸く穴が開いてて、そこから川西(幸一)さんの顔が覗いてて、矢印で「この人がドラム」って書いてあったんですよ。それを見て、あ、このバンド好きって思った(笑)。
YO-KING その辺のユーモアが出てくるのは、やっぱり3枚目の『服部』(89)ぐらいからでしょう? それまでは『PATi・PATi』とかの表紙に出てたし、同世代のバンドマンに響くようなバンドではなかったと思う。『服部』『ケダモノの嵐』あたりから、ユニコーンってカッコよさそうじゃんって、ざわついてきた印象はあります。
――民生さんとの交流が始まったのはいつごろですか?
YO-KING SMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)は以前CSアーティスツと言っていて、「CSAちゃん祭り」というイベントをやってたんですよね。その辺のバンドを集めて、シャッフルしたりして。そのときの企画の打ち合わせから、だんだん話すようになって、仲よくなっていったイメージがありますけど。90年代のはじめかな。
桜井 シャッフルバンドの流れでいうと、SPARKS GO GO(スパゴー)が地元の北海道・倶知安を盛り上げる趣旨のイベントを開いたんですよ。そのときに民生さんとスパゴーと真心がシャッフルして、ポテ伊東と……なんだっけ?
――「ポテ伊東とハッピー&八熊」ですね。