“時代を作った人たち”の本音に迫る対談企画「有働由美子のマイフェアパーソン」。今回のゲストは、スポーツジャーナリストの増田明美さんです。

「非国民!」と指さされて

 有働 増田さんは選手時代、日本記録を12回、世界記録を2回更新し、18歳での初マラソンでは、当時の日本最高記録の2時間36分34秒。走れば記録を出すので「天才現る」と騒がれていましたね。

 増田 言われていましたねぇ。調子に乗ってしまいました。

増田明美さん(右)と有働由美子さん。増田さんは日本パラ陸上競技連盟会長を2018年から務めている ©文藝春秋

 有働 ところが19歳の大阪女子マラソン(現・大阪国際女子マラソン)で途中棄権、20歳のロサンゼルス五輪女子マラソンでも途中棄権して一旦引退し、競技を離れます。どんなお気持ちだったのですか。

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 増田 当時の私は、競技では一気に日本一になったものの、心はまだ20歳前後。五輪を背負いきれませんでしたね。マラソンは2時間以上走るでしょ。だから自分の全てが出てしまう。ライバルに抜かれたり、イメージしていたレースができなかったりすると、自分の弱さが出ちゃうんです。あの時はそうでした。

 有働 五輪の前から、心理的についていけていなかった?

 増田 本番のロスが暑いので、慣れるために暑い所で合宿をしたら疲れが取れなくなって。最後の宮古島合宿で5000メートルのタイムトライアル中に、地元の女子高生に抜かれてしまいましたよ。自信がない中、合宿終了後に開かれた壮行会をすっぽかしてしまい、マスコミには“失踪”と騒がれました。シャボン玉みたいに消えてしまいたい気持ちでいっぱいでしたね。

 有働 そこまで追い込まれても、五輪のスタートラインに立って。

 増田 カラ元気でね。「これだけ走れない時間があったから脚のバネはたまっているかもしれない」って。最初から飛び出したら、5キロ手前で大集団に追いつかれて抜かれて。こんな惨めな私を日本中の人がテレビで観ていると思ったら恥ずかしくて、そんな気持ちに負けて16キロで途中棄権しました。

 有働 その後はどうでしたか。

 増田 辛かった。成田空港で通りすがりの人に「非国民!」と指さされたりしてね。

 有働 勝手に期待をかけておいてあまりに身勝手な言葉です。