この男は1400両(1億4000万円程度)もの巨費を投じて、五代目瀬川を身請けしたものだから、江戸中の話題をさらった。ところで「検校」とは、元来は社寺や荘園を監督する役職名で、のちに盲人の役職の最高位を指すようになった。要は、鳥山検校とは、鳥山姓の高位の盲人のことだが、そんな彼がなぜこれほどの金額を支払えたのか。
江戸中期、「座頭」と呼ばれた盲目の人たちは、政府の手厚い保護を受けていた。できる仕事がかぎられることへの配慮から、高利貸しが許されていたのである。このため、彼らの多くはあんまや鍼術で稼いだ金を元手に高利で貸し付け、得られた利息を使って吉原で遊んでいた、というわけだ。
なかでも鳥山検校は、幕府から種々の事業の独占を認められ、税金も免除されていた「当道座(とうどうざ)」という盲人組織の最高位。彼自身もかなり苛烈な取り立てをしていたといわれ、唸るほどお金があったのである。
その後の伝説の花魁の運命
しかし、悪徳が過ぎたようだ。瀬川を身請けして3年後の安永7年(1778)、高利貸しでの不正が発覚して、ほかの盲人たちと一緒に処分される。財産を没収のうえ江戸から追放されたのだから、かなり重い処分だった。
こうして身請けされながら、わずか3年で生活の糧を失った瀬川が、その後、どうなったのか、たしかなことはわからない。武士の妻になった、大工の妻になった、という話はあるが、確証はない。ただ、西洋では娼婦が引退後に一般男性と結婚する例など、ほとんどなかったのに対し、吉原の女郎は前述した理由で差別されていなかったので、ふつうの結婚も難しくなかった。瀬川がだれかの妻になったとしても、不自然ではない。
五代目瀬川について、史実として確定していることは少ないが、物語は伝わっている。田螺金魚は鳥山検校が処罰を受けた安永7年、『契情買虎(けいせいかいとら)ノ巻』という洒落本(遊廓を舞台にした戯作文学)に、五代目瀬川の身請け話を書いた。身請けされたため、恋仲だった客との悲恋が生じたという話で、もちろんファンタジーだが、おそらく吉原には似たような話がたくさんあったのだろう。