ホテルオークラ東京のロビーには、一切の絵画がないことをご存知だろうか。
麻の葉文様の木組や、切子玉を連ねたような照明、梅花の5弁を象った椅子とテーブルなど、モダン建築の粋を集めたデザインは、創業以来、建替えを経て今年9月にオープンした新しいロビーでも寸分たがわず復元されている。
だが、絵画はない。創業者・大倉喜七郎の「ホテルの建物そのものを芸術品にせよ」という信念によるものだ。
大倉財閥の2代目である喜七郎は明治33年、17歳から7年間英国に留学した。ケンブリッジ大学でボート部に参加し、馬術や自動車競技にも熱中。モンターギュ国際自動車レースで2位という新聞記事に驚愕した父・喜八郎がついに呼び戻したところ、豪華な自動車を5台も買ってきたという逸話がある。
英国紳士の振る舞いがぴたりと身についており、「バロン」と呼ばれた。男爵の爵位をもつ者多しといえども、愛称となったのは喜七郎だけだろう。ちなみに端正なマスクで、女性にも多く慕われたという。生涯フロックコートに縞のズボンで、「ホテルオークラの建設現場の土埃舞う中もフロックコートでした」と創業当時を知る大崎磐夫・元社長は言う。
帰国後は父から事業を継承し、大正11年、帝国ホテルの3代目会長となった。
芸術家への支援を惜しまず、オペラの藤原義江を帝国ホテルに生涯無料で滞在させたのは喜七郎が始まりである。「目利き」は、さらにヴァイオリンの諏訪根自子、声楽の原信子、尺八の福田蘭童をパトロネージし、自分でも邦楽を嗜み、オークラウロという洋風尺八を発明した。
島崎藤村や川端康成、菊池寛を支援して、日本ペンクラブ設立には「役にたたないことに使ってくれ」と陰から資金協力したという。
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source : 文藝春秋 2019年12月号
genre : ライフ