作曲家・服部克久(はっとりかつひさ)さん(1936―2020)の「親父」は、戦前、戦後を通じて活躍した作曲家の服部良一(りょういち)(1907―1993)。淡谷のり子の「別れのブルース」、高峰三枝子の「湖畔の宿」、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」、映画「青い山脈」の主題歌など、数々の名曲を送り出した“日本の歌謡曲の父”は、家庭ではどのような父だったのか。
1945(昭和20)年暮れのことだ。2階の部屋で、家族みんなで喋っていると、階下から「坊や!坊や!」と呼ぶ声がした。
「あ、パパだ!」。僕はおふくろや妹、弟たちと階段を転がるようにして降りていった。玄関には、戦闘帽をかぶった国防服姿の親父が立っていた。上海にいる親父が「無事らしい」というのは風の便りに聞いていたが、戦争が終わってもなかなか戻ってこない。「もしや……」と家族の誰もが不安に思っていた。親父も家族の安否が気にかかっていたに違いない。しかし、昔の男だ。いきなり女房の名前を呼ぶのは照れくさくて、長男の僕を呼んだのだろう。
「パパが、僕らのパパが帰ってきた!」。9歳だった僕は飛び上がるほど嬉しかった。
親父は、僕ら5人のきょうだいをわけへだてなくかわいがってくれた。文字通りの猫かわいがりで、小さい頃などはペロペロと顔中を舐められた。だが、一緒にいられる時間は短かった。とにかく忙しかったのだ。親父が家で何もしないで、じっとしているところを見たことがない。銀座の事務所から深夜帰宅して、それから仕事場にこもる。「おやすみなさい」と寝るときに仕事場をのぞくと、曲げた左手の人さし指をかみながら、6Bの鉛筆で楽譜に向かっている。朝起きて「行ってきます」というときもまだ仕事をしていた。その背中は僕らを寄せつけない空気を放っていた。おふくろが徹夜で作曲している親父が眠りこまないように、はたきの柄で後から支えていることもあった。作曲家というのは、ずい分大変な仕事なのだなと子供心に感じたものだ。

仕事だけでなく、遊びも半端じゃなかった。
親父が飲み歩かなかったら、おそらくビルの2つや3つ建っていたのではないだろうか。家では唸(うな)りながら睡眠時間を削って曲を作っているのに、外ではそういう素振りをいっさい見せなかった。麻のスーツを颯爽と着こなし、ボルサリーノをかぶり、銀座を闊歩していた。時間がとれると、「よーし、うまいものを食べさせてやるぞ」と寿司屋などに連れていってくれた。「音楽を仕事だと思ってはいけないよ。遊び感覚がなくてはダメだ」。よくそんなことを言っていた。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2007年2月号

