自身で企画した番組「ふるさとの歌まつり」や「紅白歌合戦」の司会で親しまれたNHKアナウンサーの宮田輝(みやたてる)(1921―1990)。1974(昭和49)年に参議院議員へ転じたが、妻・恵美さんは「私はずっと“NHKの宮田輝”でいてほしかった。夫婦して永田町の水にはなかなかなじめませんでしたね」と語る。
年末年始は私たち夫婦にとって、最も忙しくかつ楽しい時期でした。毎年クリスマス頃から紅白の準備が忙しくなるんですが、連夜、家にスタッフを連れ帰っては遅くまで打合せをしていました。
大晦日の夜は放映が終わると即、わが家で打ち上げ。当時では珍しくVTR機器を備えたリビングで、録画したばかりのビデオを見ながら、制作、衣装、技術、広報などのスタッフが集まって盛り上がるんです。誰かが玄関の靴を数えたら、80足あったなんて年もありました。

美空ひばりさんが出場された年は、ひばりさんがお母さまと一緒にみえたこともありましたね。昭和47年でしょうか、夜中にひばりさんをワッショイワッショイ胴上げしたりして(笑)。私もスタッフたちとは家族同然の付き合いをしていましたからお互い気を使いませんし、元日の昼頃まで雑魚寝した人がごろごろいました。ほんと、楽しい時代でしたね。
NHKの東京放送劇団に籍を置いていた私と宮田は、いわば“おしどり夫婦”。自分で言うのも何ですが、当時私はモテたんですけど、中でも宮田が一番熱心だったので彼に決まったのかナ(笑)。子供がいなかったこともあり「明るい茶の間」「向こう三軒両隣」「趣味の園芸」などの番組で、昭和47年ころまで、声優やキャスター的な仕事を続けました。
そんな生活が一変したのは、宮田が昭和49年に参議院議員になってから。昭和30年代半ばから、さまざまな党派から選挙に出ないかとおすすめがありました。でも私は一貫して猛反対していましたし、宮田もNHKの仕事が大好きでしたから、断り続けてきました。ところがその年の選挙では局の上層部と自民党に懇請されてどうしても断りきれず出馬、当選します。「困ったことになったな」というのが本音でした。
最後までやさしい人でした
宮田も私も放送の世界しか知りませんから、政界の常識がなかなか理解できず苦労しましたが、「私たちは永田町の常識にとらわれることはない。雑音を気にせず良心にしたがって活動しよう」と宣言しました。秘書の中には「そんな素人考えにはついていけない」といって事務所を飛び出した人もいましたけど、裏表のない宮田の人柄を理解して支持してくれる人も少なくありませんでした。
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source : 文藝春秋 1998年2月号