弟の海老一染之助(えびいちそめのすけ)さん(1934―2017)が、広げた傘の上で土瓶をクルクルと回し、兄の染太郎(そめたろう)(1932―2002)が「いつもより余計に回しております」と口上を披露。そして「これでギャラおんなじ」のセリフで大笑い。お正月と縁起ものには欠かせない、太神楽曲芸師「お染ブラザーズ」の日々を弟が語る。
私たちがやっていた太神楽(だいかぐら)は太夫(たゆう)と後見(こうけん)とのふたり一組が正式です。もとは神主さんがやっていたようですが、明治時代からは寄席の色物として重宝されるようになりました。
この道へ兄弟ふたりで進んだのは、ひとえに父が決めたことでした。落語家から邦楽の笛吹きに転じた父は終戦直後、これからは日本古来の芸を身につけなければ食べていけないと考えたようで、二代目海老一海老蔵師匠のもとへ、11歳と13歳の私たちを弟子入りさせたのです。とはいえ最初は、染太郎さんだけのはずでした。ところが、くっついていった私のほうが太神楽に興味を持ってしまった。
実を言うと、私たちは幼少時から兄弟仲がわるかった。父などは私たちの不仲を心配して、近所の医者へ相談に行ったほどでした。私は昭和9年の戌年、染太郎さんは昭和7年の申年。合うわけがありません。染太郎さんは勉強が好き、私は嫌い。学級委員を3年連続で務め、「優」ばかりの成績表だった染太郎さんは、「何をやっても僕のほうがうまい」という態度が、子ども心にも見て取れたのでした。

でも、太神楽の芸だけは私のほうがよくできた。兄に勝てるものをみつけた私は、必死で練習しました。結局、私が曲芸を披露する格上の太夫に、染太郎さんが後見になりました。「染之助染太郎」という名前も、上座が私なので、結果弟の名前が先になったのです。
芸については、生涯バトルでした。後見である兄には、サーカスのピエロのように面白おかしく小道具を渡してもらいたいのに、それがなかなかできません。正直、兄の芸では「おかゆも啜(すす)れない」。食べていくため売れるためと、楽屋でときには舞台上で染太郎さんに意見していました。「何で私の思いがわからないのか」と憎しみに似た感情を抱くこともありました。一方でそんな私をみて、世間が染太郎さんに同情的だったのも知っていました。兄もずいぶんと耐えていたのだと思います。頭のいい人ですから、弟の私に言われるばかりで口惜しい思いもしたことでしょう。
そんな間柄ですから、楽屋は別でしたし、酒を酌み交わしたこともありません。声を掛けるときも「染太郎さん」か「あなた」。僕らだけでなく、お互いの妻や子どもたち同士の交流も皆無でした。漫才で言うなら、私たちの場合は太夫がツッコミで、後見がボケ。どうしてもツッコミが威張って見えるので、染太郎さんの子どもたちにしたら「叔父さんがお父さんをいじめてる」と思っていたかもしれません。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
今だけ年額プラン50%OFF!
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
オススメ! 期間限定
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
450円/月
定価10,800円のところ、
7/31㊌10時まで初年度5,400円
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2009年8月号