1955(昭和30)年の11月、立教大学2年の長嶋茂雄はフィリピンのマニラにいた。同地で開催されたアジア野球選手権大会に日本代表の一員として出場したのだ。そのチームに慶応大学4年の佐々木信也氏(91)もいた。後に「プロ野球ニュース」のキャスターとなった佐々木氏が後輩・長嶋を語る。
当時の日本代表は東京六大学リーグから選抜されました。メンバー16人のうち12人が後にプロへ行き、投手の秋山登(明大→大洋)、杉浦忠(立大→南海)、木村保(早大→南海)は、3人ともプロ1年目に20勝しました。それぐらい当時の東京六大学のレベルは高かった。人気もプロ野球よりありましたよ。神宮球場が超満員、6万人の観客で埋まってましたからね。
僕は長嶋茂雄くんを「シゲ」と呼んでいました。シゲは目立っていた。2年生の時から主力として試合に出始めて、特別上手い選手ではなかったけれど、動作が大きくて派手なんです。それがシゲの持ち味でした。同じ立教の同期に本屋敷錦吾(のち阪急、阪神でプレー)という上手い内野手がいて、2人のプレースタイルは好対照でした。

アジア大会の宿舎はマニラのベイビューホテルで、シゲと同部屋になりました。301号室。今でも覚えていますよ。シゲは部屋に入るなり「よろしくお願いします!」と挨拶して礼儀正しい奴でしたが、部屋に着いたらすぐ寝てしまった。しかも僅か10分ほどの間に2回もベッドから転げ落ちた。アイツらしいですよね。
2週間以上も同じ部屋で過ごしましたが、シゲは、寝てるか、食べてるか、野球してるか。部屋に帰ってくるとすぐ寝ちゃうから、彼と野球談議をした記憶がない。僕は高校1年のときに甲子園で優勝(神奈川県立湘南高校)しているんですけど、一切触れてこなかった。シゲは甲子園にさえ出ていないのにね。
アジア大会にはフィリピン、韓国、台湾と日本が出場しましたが、日本は別格の強さでした。各国と2試合ずつ計6試合して、楽々全勝優勝です。皆が打ちまくっていたので、11安打のシゲだけが目立っていた記憶はありません。

アジア大会でシゲと一緒にプレーして驚いたのは、サードからの送球です。僕はセカンドで、併殺のとき普通は80%くらいの力で投げるもの。ところが、シゲは全力で送球してくるものだから、手が腫れ上がっちゃってねぇ。あまり人のことを考えないたちなんだな(笑)。
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