長嶋茂雄「これが日の丸のプレッシャーか」

短期集中連載 長嶋茂雄と五輪の真実 第1回

鷲田 康 ジャーナリスト
エンタメ スポーツ
史上初オールプロのドリームチーム。監督はミスター以外考えられなかった——。短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」の第1回

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「監督は長嶋しかいないだろう」。2004年アテネ五輪に向けた史上初のオールプロによる“ドリームチーム”結成の流れの中で、こんな声が最初に出てきたのは、実はアマチュア球界の関係者からだった
▶︎「長嶋さんと一致したのは、宮本をキャプテンにして宮本を軸にしたチームを作ること。それと城島を4番にして打線の核にすることだった」とヘッドコーチの中畑は振り返る
▶︎「本当にオリンピックはなんとも言えないものがあるよね。他の試合ではないよ、こういう感じは! 予期せぬ色んなものがでてくるんだ」と長嶋は語る

長嶋の発案で縫い付けられた日の丸

 いつもの軽快な足取りではなかった。

 2003年11月7日の札幌ドーム。激闘が終わり一歩、一歩踏みしめるような足取りで監督室に戻った長嶋茂雄には、いつものあの輝くような笑顔はない。全てをやり遂げた安堵感と明らかな深い疲労の色が、その顔には滲んでいた。ソファーに座り、しばし天井を見つめて、ユニフォームのボタンを外しはじめた。そうして上着を脱ぎ、じっとユニフォームに目を落とす。

 見つめていたのはユニフォームに縫い付けられた日の丸だった。

 ただ、ユニフォーム前面の「JAPAN」のロゴの横にある大きな日の丸ではない。背中の首の付け根に縫い付けられた小さな日の丸――。

 その日の丸は、日本代表ユニフォームの最初のデザインにはなかったものだった。しかし「日の丸を背負うんだから……」という長嶋の発案で、急遽、背中に縫い付けられることが決まった。その小さな国旗を見つめて、長嶋は「ふうー」と一つ大きなため息をつくと傍に付き添っていた中畑清にこう絞り出すように語りかけた。

「キヨシ……これがプレッシャーっていうんだなあ……」

 声は嗄れて、かすれていた。

 この日、長嶋が率いる日本代表は、翌年のアテネ五輪への出場権を賭けたアジア最終予選を兼ねたアジア野球選手権の最終戦となる韓国戦を戦った。2対0で宿敵を撃破。これで正式にアテネへの切符を手にしたのである。

 3戦全勝。

 結果を見れば、最終予選は危なげない完勝だった。第2戦の台湾戦に9対0で圧勝した時点で、アテネ五輪への切符もほぼ手中に収めていた。

 しかし最後の韓国戦まで長嶋は決して手を抜こうとしなかった。最後の最後までベンチで声を張り上げ、選手を叱咤激励した。

 だからもう吐き出す声は嗄れて、掠れ切っていたのである。

「札幌の3試合ですね」

 後に長嶋は遠くを見つめるような視線でこう振り返っている。

「半端じゃなかった。ペナントや日本シリーズでの感じとは全く違うんだ。そう……何とも言えない重さ。やっぱりオリンピックだなというのをね、背中にずっと強く感じながら戦いました」

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長嶋氏

シドニー五輪の蹉跌

 オリンピックをオールプロの“ドリームチーム”で戦う——もともと五輪の野球はアマチュア選手たちのものだった。

 野球が公開競技としてオリンピックで実施されたのは、1984年のロサンゼルス大会から。日本代表は社会人野球と学生野球の選抜チームで構成され、ロサンゼルス大会では見事に金メダルを獲得している。その後もソウル、バルセロナ、アトランタと4大会連続でメダルを獲得してきた。しかしそんなアマチュアの祭典が大きく方向転換したのが00年のシドニー五輪だった。

 国際オリンピック委員会はこの大会から、野球にもプロ選手の参加を認め、日本代表の編成にプロからも選手を参加させるべき、という声がにわかに大きくなっていった。ところがその声に待ったをかけたのはプロ側だったのである。

 シドニー五輪がシーズン中の9月に開催されることから、巨人をはじめ数球団が主力選手の出場に猛反発、選手派遣を拒否する事態に至った。その結果プロからは投手として西武の松坂大輔にロッテ・黒木知宏ら、野手陣はダイエー・松中信彦に近鉄・中村紀洋、オリックスの田口壮ら合計8選手の参加に止まったのである。

 しかしこの五輪史上初のプロアマ混成チームは、本大会では準決勝でキューバに0対3で完敗。松坂が先発した3位決定戦も韓国に1対3で敗れた。このときの韓国代表は、出場24選手中23選手をプロ選手で固めた“ドリームチーム”。“挙国一致度”の差で宿敵に完敗した日本は、野球が五輪競技に加わってから、初めてメダルを逃すこととなった。

 この結果に国内の野球関係者の間では、04年に開催される次のアテネ五輪では本格的にプロ選手による代表チーム編成の必要性が語られるようになってきていた。01年に台湾で行われたワールドカップには、巨人・阿部慎之助、高橋由伸に中日・井端弘和、ダイエー・井口資仁ら総勢24選手中、14人をプロ選手で固めるチームを送り出しながら、3位決定戦で今度は地元の台湾に0対3で完敗。またもメダルを逃す結果となった。中途半端な混成チームの上に、元慶大監督の後藤寿彦が指揮を執ったが、慣れないプロ選手にどこか遠慮している場面がいくつか見られた。

「監督は長嶋しかいないだろう」

 史上初のオールプロによる“ドリームチーム”結成の流れの中で、こんな声が最初に出てきたのは、実はアマチュア球界の関係者からだった。

「まだ正式にプロ側が全く動いていない段階から、社会人野球の山本英一郎さんや六大学の長船騏郎さんが『監督は長嶋しかいない』とあちこちで言い出していた」

 こう語るのは当時のコミッショナー事務局長の長谷川一雄である。

「キヨシ、ヘッドをやってくれ」

 山本英一郎は当時、日本野球連盟会長、長船騏郎は同じく当時日本学生野球協会常務理事でいずれもアマチュア球界のフィクサー的な存在だった。しかしこの2人が、実は五輪へのプロ選手の参加を強力に押し進めていた。ただ、アマチュア球界には、根強い五輪信仰がある。そこで山本と長船は、日本代表チームをプロに託すには全ての関係者が納得するシンボルが必要だと考えた訳だ。そのシンボルとなりうる存在、それは国民的スターである長嶋茂雄を措いて他にはいないというのが結論だった。

 一方のプロ側の転機となったのは、巨人の親会社の読売新聞社がアテネ五輪でJOCオフィシャルパートナー紙となったことだった。

 これまでシーズン中の選手派遣反対の旗頭的な存在だった同社の渡邉恒雄社長が、一転してアテネ大会でのドリームチーム派遣に舵を切った。巨人軍終身名誉監督である長嶋の担ぎ出しで、プロアマの巨頭の方向性が一致した訳である。

 02年4月22日の全日本野球会議で長嶋は、日本代表編成委員会に新設された強化本部長に就任した。そして同年12月2日の全日本野球会議幹事会で正式にアテネ五輪の日本代表監督就任が決まった。

「五輪という大きな舞台で日本国を代表する、つまり日の丸を背負う訳ですから、かつてない興奮と使命の重さを感じています。勝負の世界である以上、勝つという大前提がある訳ですから、勝利に邁進しながら、チーム編成でも“ドリームチーム”、夢のあるチームにしていきたい」

 就任会見で長嶋はこう語り、背番号は巨人監督時代につけていた「3」を考えていることを明かした。

「長嶋さんから電話がかかってきたのは、監督就任が正式に決まった直後のことだったと思う」

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ベンチには日の丸と「3」のユニフォーム

 中畑清が長嶋と会ったのは、数日後の都内のスポーツジムにあるレストランだった。

「ちょっと大事な話がある。ついてはあまり人のいないところで話そう、って言われて行ったら大勢人がいるレストランのど真ん中だった。長嶋さんらしいね。そこで『キヨシ、報道されているようにオリンピックをやる。ついてはヘッド(コーチ)をやってくれないか』と言われたんだ」

 中畑は長嶋を「オヤジ」と呼ぶ。「オヤジ」の頼みを断る理由はない。一も二もなく「やらせてください」と返事をすると、長嶋から守備と投手担当のコーチ探しを託された。

「もちろんコーチとしての力量、人間性、性格もあったが、もう一つ大事にしたのはマスコミとの距離。オレは日本テレビで解説をしていたから、それならフジテレビの(高木)豊とNHKの大野(豊)が適任だろうと推薦した。長嶋さんもすぐに了承してくれたよ」

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ヘッドコーチの中畑氏

最初に決まった2選手

 ヘッドコーチの中畑に守備コーチは高木、投手コーチに大野とコーチングスタッフが固まれば、次の仕事は代表候補の選任である。

 実はこのときすでに、長嶋には、一つ、大きな足枷がかけられていた。

 プロ野球はアテネ五輪の期間中も公式戦を継続して開催する方針を固め、その方向で調整を進めていた。アテネ五輪は8月13日に開幕し、閉幕するのは同29日の予定だった。日本ではお盆休みを挟み興行的には夏休みのかき入れどき。そこで2週間以上もシーズンを中断することにほぼ全球団が反対していた。

 一方、主力選手が五輪に参加する中でシーズンも開催となると、チーム編成がガタガタになる。そこで中日・落合博満、阪神・岡田彰布らの監督たちが「全面的に協力することは難しい」と異を唱えたのである。

 長嶋の代表監督就任が正式決定する直前の02年11月8日、名古屋市内のホテルで12球団オーナー会議が開かれ、アテネ五輪の代表選考について、各球団最大2名までという制限を設けることが決まった。

「ある程度、想定はしていました。(五輪期間も)公式戦が行われるのであれば、各球団の間できちんと公平さを保つことは重要ですし、その意味で1球団2名までという制限も止むを得ない」

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 決定に長嶋は無念を噛み締めてこうコメントした。制限付きの“ドリームチーム”を決めたオーナーたちには「金メダルより金(カネ)」と一斉にブーイングが巻き起こった。

 しかしオーナー会議では、1年後に迫ったアジア最終予選は11月開催のため、人数制限は設けないことも確認されている。とにかく予選を突破することが、先決である。その戦いに真の“ドリームチーム”で臨むために、長嶋は動き出した。

 年が明けた03年の長嶋のスケジュールはかなり過密になっていった。2月にはキャンプ視察で宮崎、沖縄と飛び回り、その間にも代表編成委員会の会議が頻繁に開催された。6月には五輪本番直前に合宿を張るイタリアに渡って、約1週間かけて候補地のパルマ、ミラノなどの球場、周辺施設を視察した。その間にも野球関係者、代表スポンサーらとの会合、会食がびっしりと詰まっていた。

 チーム編成も着々と進んでいった。

「最初に決まった選手は2人いた」

 中畑が明かしたのはヤクルトの宮本慎也とダイエーの城島健司の名前だった。

ミスターが惚れ込んだ才能

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source : 文藝春秋 2021年5月号

genre : エンタメ スポーツ