映画、ジャズ、ミステリー、さらにはポルノグラフィの評論まで、幅広いジャンルで筆をふるった植草甚一(1908〜1979)は、「J・J」の愛称で親しまれた。
著書に『植草甚一の勉強』(本の雑誌社)がある批評家の大谷能生氏(53)が、その多面的な魅力を綴る。
植草甚一の初の本格的著作は(1950年代に新書シリーズの1冊を担当しているが、頁数が少ないのでそれをのぞくと)晶文社から刊行された『ジャズの前衛と黒人たち』である。1967年の出版で、ぼくが持っている初版のオビには「ジャズ・エリート必読!」と銘打たれている。「前衛」というコトバからもうかがわれるように、公民権運動からはじまるアメリカの政治的動乱と「モダン・ジャズ」を並走させながら解説した1冊として、この本はいわゆる「68年」的な時代に突入しようとしていたニッポンの若者たちに熱烈に支持されたのだった。
しかし、この時植草はすでに59歳。1908年生まれの彼は、小説家で言うならば太宰治や大岡昇平(どちらも1909年生まれ)たちと同世代の物書きなのである。日本橋の木綿問屋の跡取り息子として生まれ、関東大震災の時点で中学生。無声映画、シュルレアリスム文学、ロシア・アヴァンギャルドをリアルタイムで受容し、出来たばかりの築地小劇場に熱心に通い、1935年に東宝宣伝部に入社したのちは外国映画とその原作小説に耽溺して日々を暮らし、戦時下でも東京や横浜の古本屋を駆け回って洋書を見つけ出して悦ぶ……といった、つまり彼は、戦前・戦中・戦後を筋金入りの「あたらしもの好き」として生き抜いた、大正モダニズム文化の生き残りの1人だったのである。

植草が筆一本で暮らしはじめたのは戦後になってからのことだが、彼が「ちょいと面白い」と興味を持つものは、映画であり、ハードボイルド小説であり、外国のコミックスであり、最新の写真機であり、流行の風俗であり、どれもこれも人工的に作られた娯楽品ばかり。そして、戦後にあってもこうした軽佻浮薄な文物についての文章は長らく読み捨てのものとして扱われ、実際、植草が寄稿を続けていた『スイングジャーナル』も『映画の友』も、彼の文章が「単行本」としてまとめられるものとはまったく思っていなかったという。
こうした状況が変わりはじめたのが、たとえば『平凡パンチ』が創刊された1964年あたりのことである。60年創業の晶文社はいわゆる「団塊の世代」をターゲットに、若者の趣味と嗜好を積極的にリサーチした「本」を出版することを試みた。ここから現在へとつながる「サブカルチャー」というジャンルが立ち上げられることになったわけだが、その第1弾として選ばれたのが、つまり、「ジャズ」であり「植草甚一」であったのだ。
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