2本足を使っておのれの卑小を知る
極地や山を深く旅する魅力は何か、ということについて、私は近頃説得力のある言葉を発見した。それはただの〈存在〉になれることだ。何のこっちゃ、と思うかもしれないが自分の感覚にはぴったりである。
意味もなく自然を流浪するとき、社会や時代を超越した地球に帰属するただの生ける者として自分を認識できる。それが何かとてもいいので性懲りもなく荒野に出る。ただの存在になるためには自然と〈調和〉する方法論が必要で、それができたときの感情は〈よろこび〉である。
もちろんこれらの言葉は私が自分の経験をつうじて見つけたものだ。ところがだ。まったく同じことが本書に書かれているのでビックリした。曰く〈歩いている時には、何もしない。(中略)存在することの純粋な感覚がよみがえってくる〉〈そしてついに、最後の、おそらくは調和の永遠がある〉〈何かを発見すれば思考の喜びが生まれ、何かをらくにこなせるようになれば身体の喜びが生まれる〉等々。まさか……オレの本をパクったのか? って、そんなわけがない。訳者あとがきによると、フランス語の歩くという言葉〈marcher〉には〈山を歩く〉という意味が含まれているらしく、どうやら著者も山を歩くことで自然を感じとるタイプの人らしい。同類である以上、導き出される言葉のセレクトも似通ってくる、ということか。

考えてみれば直立して2本足で地面を踏みしめ前進することはホモ・サピエンスにのみ許された特権だ。どこかにむかって歩きはじめたとき人は風景のなかに目印をさがし、それを拠り所に目的地をめざす。そしてそのプロセスをつうじて人は大地と呼吸を重ねあわせ、私はここで生きているという感覚をもつことができる。だから歩くことは人間の思考のはじまりであり、地味ではあるがずっと大事なことだった。
でも歩くことは、いつしか遠ざけられるようになった。なぜなら歩くことは遅いからだ。悲しいほど移動効率が悪い。登山口に行くのに3時間かけて歩いていたら山に登れないので普通は車で行く。ごめんなさい、もちろん私も車を使います。でもこのスピード化の結果、私たちは何をうしなった? それが存在することである。
〈もっとよいこと、もっと急ぎのこと、もっと「する」べきことのために、「存在」することは後回しにされがちだ〉。著者が嘆くように人類はいまや五感を働かせず、動かなくても生きていける社会をつくりあげた。でもときどき歩き、身体で外の世界を知覚しないと自分自身を見失ってしまいそうだ。
歩くことの遅さ、すなわち謙虚さこそ、じつは人間の有限性を気づかせる契機になる。そう、人間は小さい。壮大な雪山を登るときに感じるのは、自分はゾウの身体にたかるノミのように卑小な存在だという感覚である。それと同様、どこまでもゆっくり歩いてゆくことで私たちはこの大地の広さを知り、それにくらべて悲しいほど小さなおのれ自身を見る。でもオレって卑小だなぁという感覚は決して屈辱的なものではない。地球の大きさに思いを馳せることが自分自身を位置づけることにつながり、そこから無限の可能性が開けることもある、という意味では。
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