緒方竹虎 父からもらった英文の手紙

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緒方竹虎(おがたたけとら)(1888―1956)は戦前、朝日新聞主筆から政治家に転じ、小磯内閣の情報局総裁を務めた。戦後は東久邇内閣では内閣書記官長、吉田内閣では副総理として活躍。吉田の後の自由党総裁として保守合同を推進し、自民党初代総裁の声も高かったが、直前に急逝した。日銀理事を務めた四十郎(しじゅうろう)氏は三男。息子だからこそ知り得た戦後政治史のキーマンの葛藤とは。

 父が数え年で40歳のときに生まれた私は、「四十郎」と名づけられ、兄や姉とはやや年の離れた末っ子として、父母に溺愛された。

 戦前、朝日新聞に奉職していた父は、ほとんど毎朝乗馬に出かけ、馬場から出勤し、翌日の早版のゲラを見てから夜遅く帰宅したので、平日の夜、父と顔を合わせることはほとんどなかった。それでも、犬を飼ってくれたり、週末乗馬に連れていってくれたり、私の下手な習字を見て「旨くはなるまい」と警告するなど、気をくばることを忘れなかった。

 私は、試験の前夜以外個室に閉じこもることはなく、一日の大半を「茶の間」で過ごしたので、父の動静はおのずと耳にした。1936年2月の二・二六事件において、朝日を襲撃した反乱軍と応接したこと、44年7月、33年も勤務した朝日新聞を辞して小磯内閣に入閣したこと、翌年2月、会議中暗殺されかかったこと、4月はじめ、宿願であった重慶政権との和平工作が挫折したことなど、いちはやく「茶の間」で知ることができた。

緒方竹虎 ©文藝春秋

 45年5月の空襲で大久保の家を焼失してから、和泉多摩川にあった故・中野正剛氏の別邸に移り、ここで敗戦を迎えたが、その翌日から父は東久邇宮内閣の書記官長として抗戦論者の説得と占領軍の受入れなど、未曾有の国難に対処するため文字どおり心血を注いだ。私は当時すでに旧制高校の2年生となっていたから、父が激務の合間に帰宅したときなど、一緒に多摩川の岸を散策して、戦後の日本についての父の抱負を聞くことができた。

 父と子の会話は、45年末、麻布に引っ越し、戦犯容疑と公職追放で父が在宅することが多くなると、回数もふえ、内容も充実した。このころは、父にとってはもっとも不本意な時期であったに違いないが、高校から大学へと進む多感な青年だった私にとって、有栖川公園の周辺を歩きながら、戦前戦中についての追想を聞き、将来について話し合えたことは、この上ない幸せであった。

1年半に36通の手紙

 50年、私が日銀に就職したころからは、父に連れられて湯河原の町野武馬邸などに赴くことが多く、若輩ながら内外の要人と接する機会を得た。51年8月、父は追放を解除され、政界入りしたが、私も54年7月から米国に留学することとなり、親子は太平洋をへだてて別離することとなった。私の渡米の日の父の日記には、「四十郎この日北米へ出発。羽田飛行場は、フルブライト・スカラーシップにて留学するもの30名。その見送りにて立つ所なき程なり。四十郎希望満面、見送者の間を活発に歩き回る。しかし、送る方は末子だけに愛憐の情感切なり」とあった。

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source : 文藝春秋 2007年2月号

genre : ニュース 政治 歴史