鳩山一郎(はとやまいちろう)(1883―1959)は明治の政治家・鳩山和夫の長男に生まれる。一高、東大を出て弁護士となるが、父の死後、政界に転じる。戦時中の翼賛選挙では非推薦で当選。戦後、日本自由党を結成し第一党となったが、組閣直前、公職追放となった。昭和29(1954)年、吉田内閣総辞職の後を受けて総理大臣に就任。日ソ国交回復を実現した。長男は鳩山威一郎参議院議員。衆議院議員・鳩山由紀夫(ゆきお)氏は威一郎議員の長男にあたる。由紀夫氏の弟は、鳩山邦夫衆議院議員である。
祖父はクリスチャンでもないのに、讃美歌が大好きだったんです。毎月1回、祖父の住む音羽の家に子供や孫たち、総勢2、30人が集まって讃美歌を歌うことになっていました。中でも「主よみもとに近づかん」という讃美歌が好きでした。亡くなって葬儀がおこなわれた時も讃美歌が流されました。ところが、全然別の曲がかかってしまい、祖父もさぞや草葉の陰で驚いたことでしょう。
讃美歌に心ひかれていったのは、病に倒れてからでした。それまでずっと政治の世界の権謀術数の中に身を置いてきましたから、心境の変化で、心の安定を求めたかったのだと思います。自分自身にとっても、天国が近くに感じられたのではないでしょうか。

私たち兄弟は、母の実家である石橋家で育てられました。祖父と同じ屋根の下で暮らし始めたのは、私が小学1年生の時からです。それまではクリスマスや正月に音羽を訪ねたり、夏に軽井沢の別荘に行った時に祖父と会うぐらいでした。幼い子供たちが政治の世界のゴタゴタに巻き込まれないようにという配慮があったのでしょう。母などは、祖父の存在を意識的に知らせないようにしていたのではないか、と思えるフシがあります。
小さい子供にとって、祖父がどんな人であるかわかるはずはありません。誰か偉い人が一緒に住んでいるんだな、と感じるぐらいで、好き勝手に振舞っていました。ただ、食事中などあまり大声で話したり笑ったりすると、「何がそんなにおかしい」と怒られたのを覚えています。
私や邦夫が覚えているのは、祖父が総理大臣になったころからです。中でも一番印象に残っているのは、日ソ国交回復に関する共同宣言に調印してソ連から帰国した時のことです。家族一同、音羽の家で祖父を出迎えたんですが、その時、町の方々が旗を振って歓迎してくれました。その光景を見て、子供心にも「お祖父さんは偉いんだ」と思いました。
後になって祖母から聞いたことですが、祖父はソ連を訪れるにあたって一大決心をして行ったのだそうです。国交のない国に乗り込むのは命がけのことでしたし、健康状態がすぐれなかったこともあって、二度と日本に生きて帰ってこられないのではないかと心配したようです。そこで祖母が、生長の家の谷口雅春総裁のところへ相談に行った。祖父は生長の家にも入っていたのです。谷口さんの結論は「行きなさい」ということだったので、祖父も意を決してソ連に行ったというのです。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

