自民党初代総裁として55年体制を築いた鳩山一郎(1883〜1959)。孫の鳩山由紀夫氏が見た、一郎の「友愛の精神」とは──。
政界を離れて12年、私も77歳となり、祖父の一郎が生きた76年を超えました。鳩山家の男は、父・威一郎が75歳、弟・邦夫が67歳で亡くなっており、どうも短命らしい。
幼少期には祖父が建てた東京・音羽の家(現・鳩山会館)に時々行きました。昭和31(1956)年、総理大臣として日ソ共同宣言に署名、ソビエト連邦から帰国した祖父が、大勢の皆さんに音羽で日の丸の旗を振って出迎えられている鮮烈な記憶が残っています。直後に自らが結党した自由民主党の総裁を辞して政界を引退。そのタイミングで私たちも音羽に住むことになりました。
晩年、脳溢血で半身不随となった祖父の車椅子を兄弟で押していたことを思い出します。天気の良い日、庭に面したサンルームで色紙に揮毫している祖父の姿を見たこともあります。書かれているのは「友愛」の二文字。子供ながらに、その言葉の持つ魅力に惹かれました。
厳しい人でした。家の食堂では皆が一郎の気に障ることのないよう注意を払い、緊張感に包まれていた。一度だけ私と弟が何かで笑ってしまった時、「何がおかしいんだ」と𠮟られました。以来、食事中に喋ってはいけないというのが鳩山家のルールだと私は思っていました。祖父はクリスチャンではありませんが、賛美歌を孫と歌うことを好み、その時ばかりは好々爺に見えたものです。
一郎は必ずしも政治家として評価が高いわけではありません。文部大臣を務めていた昭和8年に京都帝国大学に対する思想弾圧の「滝川事件」があり、戦後、GHQにより公職追放となりました。その晴耕雨読の間に「EUの父」と言われるクーデンホーフ=カレルギー伯の著書を翻訳することで、「友愛の精神」を実践するようになりました。その後、友愛青年同志会を興し、全国各地に友愛の志を持つ若者が誕生しました。友愛を大切にした一郎の象徴的な出来事が、日ソ共同宣言でしょう。
ソ連に赴くことに国会でも、自民党内からも、アメリカからも反発があった。特に大きかったのが北方領土問題です。一郎は北方四島のうち二島返還という形で話をまとめようとした。しかし米国務長官のダレスが日本の外務大臣に四島返還を主張するよう迫った――俗に言う「ダレスの恫喝」によりこの話は頓挫。ソ連との国交回復には成功したものの、当時から北方領土交渉は進んでおりません。また、本心としては中国との国交も回復したかったはずですが、体調がそれを許さなかった。祖父は約2年半後に亡くなりました。
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