昭和31(1956)年に総理に就任し、「神武以来の人気」と評された石橋湛山(1884〜1973)。『日本リベラルと石橋湛山』(講談社選書メチエ)の著書を持つ田中秀征元経済企画庁長官が湛山思想の本質を語る。
私は大学生の時から、石橋内閣で官房長官を務め、湛山の一番弟子と言われた石田博英先生の事務所で書生のような形で手伝いを始めました。湛山は病のために在職わずか65日で首相を辞任。石田先生は後年、「最高の神輿を担いでしまったから、並の神輿は担げなくなった」と、無念の思いを語っていました。
石田先生の事務所に入った時、湛山は病に臥せっていました。石田先生からも見舞いに同行する誘いを受けましたが、私はどうしても国会議員になってから挨拶したかった。湛山が亡くなる前年(昭和47年)の衆院選に初出馬しましたが、落選。遂に直接会えなかったことは今でも悔やまれます。ただその後、石田先生が「石橋湛山先生の孫弟子 田中秀征君へ」と書き添えてくれた額入り写真は今でも大切な宝物です。
言論人でもあった湛山は、数多くの歴史的な洞察を残しています。その一つが、日米開戦の予言です。大正10〜11(1921〜22)年のワシントン軍縮会議の前に、後に主幹となった「東洋経済新報」誌上で「日米衝突の危険」と題する社説を発表。開戦約20年前にもかかわらず、もし日中戦争が起きれば〈米国は日本を第二の独逸となし、(略)日本討伐軍を起し来りはせぬか〉、〈形勢の悪化せぬかを恐れる〉と、警告していたのです。
その後、一貫して軍部に批判的な目を向け、平和な貿易立国を目指す小日本主義を唱えました。昭和19年には、経済学者で後に一橋大学の学長も務めた中山伊知郎氏らと共に大蔵省内の「戦時経済特別調査室」のメンバーに加わりました。終戦直前、連合国が日本の国土を本州など「四つの島」に限る構想が明らかになった時には、湛山は「四つの島で食っていくように工夫すべきであるし、やり方によってそれはできる」と主張。この時、他のメンバーの賛同は得られませんでしたが、中山氏は晩年、「四つの島での生き方を徹底的に考えていた石橋さんには歯が立たなかった」と湛山の先見性を認めました。
敗戦前から戦後の日本を見据え、終戦当日の夜には、「更生日本の門出――前途は実に洋々たり」を執筆し、8月25日号の「東洋経済新報」に掲載します。長男の湛一氏は、書斎に向かう湛山の背中を見て、「声をかけるのも憚られるほど、強い覇気と勢いを感じた」と私に語っていました。それから10日余りの間に戦後の政治・経済構想に関する論文8本を執筆。矢継ぎ早に発表して戦後日本の進路設定に強い影響を与えたのです。
戦後は、政治家となって日本の舵取りを担いました。第一次吉田茂内閣で大蔵大臣に就任すると、戦後の急激なインフレの中、常識論とは真逆の積極財政を説きました。その後10年、石橋内閣が発足する5カ月前には、「もはや戦後ではない」と経済白書に明記され、この高成長は日本を世界第2位の経済大国に押し上げました。後に、私が宮澤喜一元総理と雑誌の企画で対談した際、「戦後の経済・財政政策は湛山が軌道を敷いたという理解で良いのでしょうか?」と尋ねると、宮澤氏は「その通りだ」と認めていました。
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