「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一(1840〜1931)が、女性の社会進出や平和のための国際貢献に奔走していた時代を、曾孫の渋沢雅英氏が語る。
渋沢栄一が亡くなった昭和6(1931)年、私はまだ6歳と幼かったため、曾祖父との思い出はほぼないに等しいと言えます。ですが、葬儀の光景は今でも覚えています。
自宅のあった王子の飛鳥山から青山斎場まで、沢山の車で移動する中に私も同乗していました。葬儀場に到着する頃にふと外を見ると、沿道で多くの方が栄一をお見送りくださっていた。「すごいお葬式をやるものだな。やっぱり偉い人だったんだ」と驚かされたものです。
第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京瓦斯会社(現・東京ガス)をはじめ、鉄道、繊維、造船など、栄一が関わった企業は約500にも上ります。今日になって葬儀の様子を思い返してみますと、世の中が渋沢栄一という人間を正しくご理解くださり、実業家としての実績を快く受け取ってくださっていたのだな、と感じております。
1840年に現在の埼玉県深谷市近郊の農村で生まれた栄一は、若い頃から日本の未来を真剣に考えていたといいます。幕末に徳川最後の将軍となる慶喜公に仕え農兵募集などで成果を上げ、明治維新後には静岡で商法会所という、今で言う銀行と商社を合わせたような民間組織を設立。ここでの実績が新政府に評価され大蔵省に入省しますが数年で退職、民間人として社会に奉仕する道を選びます。この決断がターニングポイントとなりました。
当時の日本は、政治主導の「官尊民卑」の風潮がありました。栄一は「国とは、国民全員で作り上げていかなければならない」と、銀行など様々な企業の創設に尽力します。栄一の美徳は、それらを私物化しなかったことです。『渋沢銀行』のように、携わった会社に自身の名を冠し利益を独占するのではなく、「みんなが一生懸命に働き、築き上げる社会」を目指していました。ですから、会社が軌道に乗ると信頼できる人間に任せ、自分はまた新たな事業へと挑戦を重ねていきました。
仕事には、業種を問わず心血を注ぐ人でした。晩年は養育院(現・東京都健康長寿医療センター)をはじめとする医療・福祉施設や、商法講習所(現・一橋大学)など、教育機関の設立や運営に奔走しました。
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