夏の麵に異状あり

山路 力也 フードジャーナリスト
ライフ ライフスタイル グルメ

 冷やし中華を食べる人が減っている。昭和世代の私にとって、夏に食べる麺といえば「冷やし中華」か「素麺」の2択しかなかった。黄色い錦糸卵に緑の胡瓜、茶色の焼豚やピンクのハムなど、色とりどりの具材が整然と並べられた甘酸っぱい冷やし中華は、見た目が地味な素麺よりも遥かに贅沢な昭和の夏の御馳走だった。

「夏の食卓の定番」と言えば冷やし中華だが… ⒸAFLO

 しかし時代は変わり、街で「冷やし中華始めました」の文字をほとんど見かけなくなった。食のジャンルの多様化や細分化が進む中で、冷たい麺の選択肢が劇的に増えたこともあるだろう。冷やしラーメンにぶっかけうどん、冷製パスタに冷麺と、昔に比べると冷やし麺界隈は随分と賑やかにはなってきたが、そんな冷やし麺の天下が脅かされつつある。それは「辛い麺」の登場だ。

 毎年のように記録的な猛暑が続く日本の夏。外を少しでも歩けば、すぐに汗が滴り落ちるような暑さであるにもかかわらず、辛いラーメンを出す店の前には長い行列ができている。玉のような汗を流しながら列に長時間並び、やっと涼しい店内に入ったかと思ったら、辛いラーメンを食べてまた汗をかく人たちがいる。なぜ彼らはそのような苦行を自らの身に課すのだろうか。何かしらの罰を受けているのか、それとも人生の修行なのか。

 しかし暑い夏に辛いものを食べることは合理的だ。辛さとは味覚ではなく痛覚や温度覚である。辛いものを食べると辛い刺激が神経を通じて脳に伝わり、脳はこの刺激を体温上昇と誤認して発汗を指示する。これは「味覚性発汗」と呼ばれるもので、汗が皮膚の表面で蒸発する際に気化熱を奪って体温を下げるため、人は汗をかくと涼しく感じるのだ。

 また人は辛いものを食べると、その辛さや痛みを緩和するために脳内に神経伝達物質である「β-エンドルフィン」を分泌する。これが多幸感や快感を生み出し、「また食べたい」という中毒性にもつながる。これらが暑い夏に辛いものを本能的に欲する理由だ。

 本来、ラーメンには「辛い」味付けのものが少なかった。醤油や塩、味噌などが味の中心で、辛さはあくまでもアクセントであり主役にはなり得ない存在だった。しかし近年の飲食業界における「旨辛ブーム」の中で、ラーメンの世界でも辛さが主役となったものが増えてきている。

 麻婆豆腐や辛味噌がのった激辛ラーメンや、胡椒や山椒、唐辛子などを使ったスパイスラーメンは、ラーメン界に新たなジャンルを構築した。また辛い麺の代表格ともいえる「担々麺」や、昨今若い女性を中心に大人気の「麻辣湯」、さらに「ミーゴレン」や「カオソーイ」「ラクサ」などアジアの辛い麺料理も専門店で食べられるようになり、辛い麺も冷やし麺に負けないほどラインナップが充実してきた。どこか健康的なイメージも手伝って、夏に辛い麺を食べることは当たり前の時代になった。

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source : 文藝春秋 2025年10月号

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