パーシヴァル・エヴェレット著 木原善彦訳「ジェイムズ」

伊藤 亜紗 美学者・東京科学大学教授
エンタメ 読書

「黒人」を演じる黒人たち

 マーク・トウェインが『トム・ソーヤーの冒険』の続編として書いた『ハックルベリー・フィンの冒険』。トムとの冒険で大金持ちになった自然児ハックが、酒浸りの父や礼儀作法を教えようとするミス・ワトソンから逃れ、ミシシッピ川を筏でくだる冒険譚だ。ヘミングウェイをして「今日のアメリカ文学はすべてここから始まる」と言わしめた重要作である。

 本書は、この『ハック・フィン』を、黒人奴隷ジェイムズ(愛称ジム)の視点から語り直したものだ。ジムは、自分が南部に売られようとしていると知り、逃亡してきたところ。ハックと出会い、偶然にも旅をともにすることになる。逃亡が知られればジムは「吊るされる」だろうし、それを助けたハックの立場も危ない。

 語り手の変更によって加わったレイヤーを一言で言い表すなら、「アイロニー」だろう。アイロニーとは、本当の意図とは異なる発言やふるまいをあえてすることだ。有名なのはソクラテスの「無知の知」である。彼は、自分の知っていることを知らないかのように装い、哲学的な対話と思索を深めようとした。

パーシヴァル・エヴェレット著 木原善彦訳『ジェイムズ』(河出書房新社)2750円(税込)

 本書のジムも徹底的に無知を装う。ただしそれは哲学のためではなく、身を守るためだ。たとえば冒頭、夜の草むらでハックとトムに出くわすシーンがある。この状況でジムは、自分が悪ガキたちの「おもちゃ」にされるに違いないことを察し、玄関ポーチに座って寝たふりをする。案の定、少年たちはジムの帽子をとって悪戯をする。「きっと魔女の仕業だと思って慌てるに違いない」。後でジムは、仲間の奴隷たちとのおしゃべりの最中、わざわざ少年たちに聞こえるようにエピソードを披露する。自分は魔女に出会って「ニオリンズ」まで連れて行かれた、と。

 地名を間違える愚かさ。魔術を信じる非文明性。大きな音がしても目覚めず、痛みを感じない愚鈍さ。白人たちが想定するこうした黒人像を、ジムや仲間たちは意図的に「演じて」いる。そうやって白人を気持ちよくさせることが、自分が受ける暴力を最小化することになるからだ。そう、無知なのは白人のほうなのである。

 全編を通じてジムの言葉遣いも印象的だ。白人と話すときには、舌足らずであえて間違いを織り込んだ「奴隷語」を使う。台所から炎が上がっているのを見ても、「火事だ」のような直接的表現はNG。「大変だ、奥様! あそこを見るだ」と言わねばならない。白人は、問題をいち早く見つけ、それに名前をつけるのが自分でないと気が済まないからだ。

 見る、そして語る主体としてふるまっていた白人たち。これを黒人奴隷の視点からとらえる反転の操作は、どこまでもグロテスクだ。終盤、怒りの炎によって自らを解放し、奴隷語ではなく通常語で話し始めるジェイムズ。もはや黒ん坊でもジムでもなくなった彼を前に、白人たちは恐怖で身動きがとれなくなってしまう。

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source : 文藝春秋 2025年10月号

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