選手としては早大在学中にラグビー日本代表に選出され、指導者としては代表チームを率いて強豪スコットランドを破った宿沢広朗(しゅくざわひろあき)(1950―2006)。当時、日本ラグビー史上の大金星と言われた試合で、主将としてチームを支え、のちに自身も代表監督を務めた「ミスター・ラグビー」平尾誠二(ひらおせいじ)氏(1963―2016)が、その人物像を語る。
1989年のスコットランド戦は、まさに勝つべくして準備された試合。それを演出したのは、たしかに宿沢さんである。来日チームのメンバー編成の弱点を見抜き、事前の敵情視察を重ね、さらには東京の初夏の暑さという天の配剤……様々な好条件を踏まえた上で、「俺たちは勝てるんだ」とチーム内外を鼓舞したのは、宿沢さんだからこそなせる業だった。
こういうと、宿沢さんは極めて冷徹な理論家風のイメージになる。銀行の役員まで勤め上げたビジネス感覚もその側面を強調しがちだ。だが、あえて僕は、宿沢さんは情熱家だった、と言いたい。

ジャパンの監督になったのは宿沢さんが38歳のとき。それまでの“父親世代”の歴代監督と比べれば、宿沢さんは僕より13歳上、兄貴分的な存在だった。それだけに、血気盛んな面が僕の目には新鮮だった。
スコットランド戦でも、前半を20対6でリードして迎えたハーフタイム、僕は自分でプレーした感覚で「失点を少なくすれば、逃げ切れる」と判断していた。そのためにもタックルを中心にディフェンスの整備をチェックする言葉をメンバーに出した。だが、宿沢さんは、冷静さとは裏腹に、アタック中心のイケイケの指示を出したのだ。最終的に28対24、点差こそ詰まったものの勝利した。
宿沢さんは「平尾を胴上げだ!」と真っ先にグラウンドに飛び出してきたが、僕は「違うぞ! まずは宿沢さんや!」と返す刀で監督を胴上げしたものだ。
僕のラグビー人生を通じて数多くの監督を見てきたが、宿沢さんの最大の特徴は人物評価がシビアで公平なことだ。そして判断には迷いがない。しかし、クレバーさや理屈だけでは、人はついていけないのも事実だ。最終的に宿沢ジャパンがまとまったのも、人を巻き込んで動かそうとする情熱があったからだ。拙(つたな)いプレーには激しい叱咤を飛ばし、時にはレフリーのジャッジにもヤジを浴びせたこともあった。スタンドで並んで観戦した時など、隣にいて驚いたこともある。そんな宿沢さんには魅力があった。
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source : 文藝春秋 2008年9月号

