豊臣秀吉にとって、天下人への道がはっきりと見えたのは、いつだったのか。たいていは、天正10（1582）年の6月、秀吉は明智光秀を山崎の戦いで討ち取って、信長の後釜に座った。そう語られがちですが、さほどに甘い話では、ありませんでした。

　まず織田家には重臣では筆頭格の柴田勝家が居ました。織田信雄（のぶかつ）や信孝（のぶたか）など、信長の息子たちも健在でした。信長の後釜に座るには、彼らを退けねばなりません。秀吉は翌年の天正11（1583）年の4月に織田信孝と柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで討ち、織田家中のトップの座を固めますが、それでも天下人には程遠く、まだまだ、ライバルが残っていました。織田信雄です。

　信雄は尾張（いまの愛知県西部）、伊勢（いまの三重県）、伊賀（いまの三重県西部）という三つの大国を持ち、三法師（信長の孫の秀信）の後見役として安土城の主でもありました。さらに無視できないのは、信長の同盟者だった徳川家康の存在です。天正12（1584）年、信雄は秀吉から離れ、家康と同盟を結んでしまいました。この2人を滅ぼすか、臣従させなければ、秀吉は天下人になれません。

　そこで秀吉と、信雄・家康の連合軍が矛を交えたのが、天正12年の小牧長久手の戦いでした。この小牧長久手の戦いこそが、2人の天下人を生んだと私は考えています。ひとりは秀吉、もうひとりは家康です。

　家康が天下を取ったのは関ヶ原の戦い、あるいは大坂の冬夏の陣だと一般には考えられていますが、天下取りの最初の重要なきっかけは、小牧長久手の戦いです。

　家康はこの戦いで圧倒的多数の秀吉軍に局地戦で勝ち、講和に持ち込めました。これで「海道一の弓取り」としての実力、野戦での異様な強さを日本国中に見せつけたのです。戦国人は強者を頼んで生き残りをはかる生き物です。全国の武将達に、家康について行けば滅びはしない、家康の味方になるのが得だ、という空気をひろめる契機となりました。家康に「不沈の強者」という信頼の看板が備わったのです。これが後に家康を天下人へと押し上げる大きな力となりました。

池田恒興の決断と焦り

　信長の死後、織田家臣団は身の振り方に悩みました。なかでも悩みが深かったのは池田恒興です。

　池田は信長の乳兄弟でした。信長様の故地・尾張・美濃（いまの岐阜県南部）という大国を形見に欲しいと思ったようです。その野望をかなえてくれそうだったのが、すでに京都を制圧している秀吉でした。

　池田は、秀吉と一緒に光秀を討った後、清洲会議で摂津（いまの大阪府北西部から兵庫県南東部）近辺に12万石を分配されたのですが、賤ヶ岳の戦いで美濃にいた信孝が討たれると、美濃の大垣城に入りました。

　池田は信雄や家康には味方できません。そうすると美濃の城、大垣城や岐阜城で、秀吉の大軍を引き受ける損な役回りになります。金華山の上にそびえる岐阜城は、下から見ると難攻不落に見えるのですが、実は簡単に落ちる城です。とがった山なので、山上に城地が少なく、少人数しか常駐できないからです。池田は秀吉について秀吉の大軍を背に信雄や家康の領地を奪うほうが得です。

　そこで池田は秀吉側に立って、信雄、家康と戦うことを決めます。天正12年3月13日、池田は美濃・尾張の境・犬山城を占拠。家康はただちに犬山城から10キロほど南にある小牧山城に駆けつけました。小牧長久手の戦いのはじまりです。

　秀吉は一説では10万近い大軍を動員し、信雄・家康軍と競り合いとなりますが、戦線が膠着しました。信雄・家康の軍勢は合わせておよそ3万人。兵力では秀吉側が圧倒的に優勢です。しかし、戦上手の家康は強兵で知られる三河衆を率い、前哨戦で善戦し、小牧山に立てこもります。

　池田は、ここで戦功をあげ、尾張、三河（いまの愛知県東部）、美濃を得ようとしました。池田には焦りがあったのです。もし、このまま秀吉側が数にものを言わせて家康に勝てば、濃尾は秀吉のものになってしまいます。池田が別動隊を率いて家康軍に挑んで勝てば、名実ともに濃尾の覇者になれます。

　池田は娘婿の猛将、森長可（ながよし、森蘭丸の兄）、武勇で知られた堀秀政、秀吉の甥の秀次らと共に、約2万騎の別動隊を編成しました。秀吉軍の左翼から、家康軍の背後に回り込み、三河に進攻する作戦を企てます。ところが、この作戦は、日本有数の諜報力を持つ徳川方に素早く察知されました。家康側には、刻々と池田ら秀吉軍の動きが報告されました。そうとは知らぬ池田らは、相手側に動きを読まれた状態で、敵地の奥深くに侵入する愚を犯してしまったのです。

　天正12年4月6日夜半、池田らが動き始めると、それを察知した家康は、8日、小牧山からひそかに抜け出します。両軍が小牧山から南東に20キロほど離れた長久手で激突したのは9日のことでした。家康軍は短時間のうちに徹底的に池田率いる豊臣方の軍を打ち破り、さっと長久手から北西に10キロほどのところにある小幡城に引き上げます。戦上手で「名人太郎」（『常山紀談』）と呼ばれた堀久太郎秀政は、鉄砲隊の集中使用で何とか生きのびましたが、池田と森は戦死しました。

官位による大名操縦

　池田対家康の局地戦は家康の勝利に終わったものの、秀吉は戦力の優位を保ったまま、信雄・家康との対峙を続けました。秀吉が外交戦を仕掛けるまでもなく、信雄は後述の理由から、内心は和睦を望んでいましたから、秀吉は信雄を家康から切り離すことに成功しました。天正12年11月12日、信雄は伊賀と伊勢半国を返上することと、人質を差し出すこと等を条件に、単独で秀吉と和議を結びました。

　元来、信雄・家康の同盟は、信長が死んで、秀吉が好き勝手にする専横を、信長の子が、とがめる大義名分で始まったものです。肝心かなめの織田家の信雄に降りられては、家康も単独では戦いを続けられません。家康も次男・結城秀康を秀吉の養子にするなどの条件で、この年のうちに秀吉と和睦し、小牧長久手の戦いは、いったん幕を閉じました。

　実は信雄・家康連合軍には決定的な弱点がありました。小牧や長久手という濃尾平野を戦場に設定したがために、信雄領の伊勢は攻められ放題になっていたのです。信雄は一人で戦っているわけではありません。信雄には家臣団がいて尾張に駆り出されていますが、彼らは伊勢方面の領地を留守にしてきています。

　そのガラ空きの信雄領に攻め込むよう近江（いまの滋賀県）の守山に布陣したのが、秀長でした。天正12年4月、秀長軍は伊勢に筒井順慶らと攻め入りました。松阪の松ヶ島城を落としましたが、先述の池田別動隊の敗北を受け、尾張に戻りました。秀吉軍は兵力に勝るので、こんな両面作戦もできたのです。

　信雄の家臣たちが伊勢防衛を希望しても、家康は尾張、三河で強大な秀吉軍とにらみ合うだけで手いっぱい、伊勢では戦ってくれません。家康軍が局地戦で勝利しても、信雄は領地を奪われてしまうので、長く戦を続けられなかったのです。

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