1964年――日本中が1つになって五輪を待ち望んでおり、想像できないほどの盛り上がりを見せていた。開会式のことは今でも非常に晴れやかな気持ちと共に思い出す――今だから洗いざらい語れるあの日の思い出。当時の日本代表選手たちが回顧する。
五輪後は「月とすっぽん」
川淵 君原さん、今日はお住まいの北九州市からわざわざご足労いただいて、ありがとうございます。
君原 いえ、もともと明日目黒区で行われるシティマラソンに参加するため、上京する予定でしたから。気にしないでください。
川淵 78歳になった今も走り続けている。頭が下がりますね。谷田さんも今日はどうぞよろしく。
スカイプで座談会に参加する谷田氏
谷田 こちらこそ。私はずっと膝を悪くしていて、大阪から伺うことができず、すみません。今日は私の本(『私の青春』三帆舎)を作ってくれた出版社の方に手伝ってもらい、スカイプで参加します。つくづく便利な世の中になりましたね。
川淵 まったくです。膝、大丈夫ですか。谷田さんは今も大阪のママさんバレーのチームコーチをやっていると聞きましたけど。
谷田 はい。現役時に痛めたのが悪化してきてはいるんですけど、この年までメスを入れずになんとかやってます。コーチの仕事も両膝にサポーターをつけてやっていますよ。
川淵氏、谷田氏
川淵 そうですか。今日家を出る時女房に、これから君原さんと谷田さんと対談するんだと話したら「まあ、君原健二さんと谷田絹子さん」とお二人のフルネームを言うんで、驚いたんです。うちの女房は僕の3歳下で、谷田さんと同じ昭和14年生まれです。僕らのような東京五輪の時に20代だった世代にとってお二人は自然と名前を覚えてしまうほど光り輝く存在なんです。
君原 「東洋の魔女」と言われた日紡貝塚女子バレー部のエーススパイカーで金メダルを獲得した谷田さんはともかく、私はマラソンで8位が精いっぱいでした。そう言われると照れ臭いですね。
スパイクを決める谷田氏
川淵 でも、君原さんは続く68年のメキシコ五輪のマラソンで銀メダルを獲り、歴史に名を刻んだ。僕は東京五輪にサッカー日本代表のフォワードとして出場しましたけど、ほとんど認知されていない(笑)。
君原 確か当時、サッカーはあまり人気がありませんでしたね。
川淵 プロリーグが発足し、メダルが期待される今とは月とスッポンです。当時は自国開催だから、どの競技のチケットも入手困難でした。なんでもいいから日本の試合を観たいという人は「サッカーなら切符あるよ」と言われたんです(笑)。その点、マラソンは人気競技だし、女子バレーは金メダル確実と目されていましたから、プレッシャーも凄かったでしょう。
捻挫はケガじゃない
谷田氏
谷田 そうでしたね。私たち日紡貝塚女子バレーボール部の選手と大松博文監督は1962年の世界選手権に優勝した後に引退するつもりでいたんです。選手の多くが結婚適齢期を迎えていましたし、もうここらで潮時だろうと。しかし、東京五輪で女子バレーが正式種目に入ることが決定し、存続を望む声が高まりました。「出てほしい」という手紙が5000通も届いたんですよ。
川淵 サッカーじゃ考えられない数(笑)。徹底したスパルタ指導で知られ「鬼の大松」と呼ばれた大松監督はその時どうされたんですか。
谷田 監督は「やるかやらないかは最後はあんたたちで決めてくれ」と私たちに言うだけでした。そこで、キャプテンの河西昌枝さんを中心にみんなで話し合い、五輪前年の正月に、監督の家に集まって「やります」と伝えたんです。
君原 そうでしたか。大松さんと言えば「俺についてこい」という名文句でも知られていますけど。
谷田 そんなことは一言もおっしゃりませんでしたよ(笑)。五輪に出ることを決めてからは監督も選手もみんな「日本のために勝つ」という想いでした。午前中は仕事で、午後3時から翌日の午前2時までひたすら練習。監督が納得いかない時には午前6時半まで練習をして、一睡もせず、出勤したこともあります。
君原 さすがは“鬼”ですね。
谷田 監督は突き指や捻挫はケガじゃないとも言ってました。どこか痛めたら、メリケン粉に酢を混ぜたものを患部に塗って、布を巻いたら、それでおしまい。
川淵 あれは湿布の代わりになるから僕もよくやったな。お医者さんに見せても湿布薬を上から張って包帯を巻いてくれるだけだとわかっているからわざわざ病院に行ってもしょうがない。それに当時は医者に行くのが恥だという意識が選手にあって、ケガをしても自分で包帯を巻いたりしてましたね。僕は小指を脱臼した時も自分でギュッと伸ばして戻し、絆創膏を貼っただけでした。結局後遺症が残って、今でもその指は外に曲がったままですけど。
谷田 どこかざっくり切ったり、盲腸を手術して入院したりしないかぎり練習は休ませてもらえませんでした。それもすべては、五輪で勝つため。「もし負けたら日本にはいられない」と思うこともありました。
知らない間に後援会が
君原 私も周囲の期待はすごく感じました。それに応えようと無理な練習をし過ぎ、精神的に追い詰められ、沿道を走っている途中にこのまま横を走る車にぶつかってけがをしたら、練習をやめられる、楽になれると思ったこともありますよ。
私は高校卒業後の59年に八幡製鉄の陸上部に入った後、62年に初めて出たフルマラソンで日本新記録を出してから選手人生が一変したんです。五輪の1年前に行われた東京プレ五輪では日本人最高の2位になり、代表の最終選考会は私が1番。代表に内定した3人の中で私が1番メダルを期待される立場になりました。あれで周囲の空気が変わった。
川淵 君原さんは日本マラソン界に彗星のごとく現れた期待の星でしたからね。本番で銅メダルを獲った円谷幸吉さんは、どちらかというと陸上トラックの方が得意で、1万mで期待されていた選手でした。
君原 はい。街を歩けば見知らぬ人から「頑張って」と言われるし、知らない間に後援会が結成されていてやめてほしいと手紙を出したこともありました。私としてはとにかく静かにしてほしかったんですけど。
川淵 なかなかそうも言ってられないプレッシャーがあったわけか。その点、サッカーはアジアの中でも弱かったし、予選リーグで1勝できれば御の字。ただ、さすがに開催国で恥ずかしい試合はできないから、西ドイツから招聘したデットマール・クラマーコーチのもとで本番までの4年間必死に強化に取り組んできたんです。
当時は食糧事情が悪く、代表でも夕食のおかずははんぺんともう1品ぐらい。しかしクラマーは選手と同じ食事を摂り、「ミスターカワブチ」と選手全員を敬称付きで呼んで、決して怒鳴らなかった。あんな立派な指導者を私は見たことがありません。ただ、僕は61年ごろに腰を痛めてしまって。競技を続けられないほどだったんですが、当時の勤務先の古河電気工業や地元の人が自分に期待してくれているのがよくわかった。ここでやめたら男が廃る、なんとしても五輪へと頑張ったら、そのうちに痛みが引いた。それで本番を迎えることができたのです。
ハトの糞が落ちてきた
君原 あの時は日本中が1つになって五輪を待ち望んでいました。想像できないほどの盛り上がりで。開会式のことは今でも非常に晴れやかな気持ちと共に思い出します。
川淵 僕も東京五輪で一番印象的だったのは、開会式。白い帽子を被り、真っ赤なブレザーに袖を通すと気分がよくて昂奮を覚えました。国立競技場に日本選手団の一員として入場した瞬間の大歓声は忘れられないね。ただ、開会式でスタンドの真下から8000羽のハトを飛ばしたでしょ。ものすごい数だから、トラックの内側にいた僕ら選手に糞が落ちてくるんだよね。折角の衣装に落ちてこないようにみんな一生懸命上を見上げて警戒してた。
谷田 そうでしたね(笑)。
君原 私は、入場の前に選手全員が競技場の外に集められ、行進の練習をしたのをよく覚えてますよ。
川淵 あったあった。せいぜい10〜20分ぐらいかと思ったら1時間以上ひたすら行進の練習をさせられて。僕は小学校の運動会じゃないんだからと段々頭にきちゃった(笑)。
君原 私は逆に1時間でも足りなかったです。リズム感がなくて。手足を揃えて1、2、1、2と皆と同じテンポで動いているつもりでも、なかなか揃わなかった。とても不安を抱いて本番も行進しましたが、まあでもうまく合わせられたろうと今まで思ってたんです。ところが2020年の東京五輪が決まった時に前のオリンピックを振り返る写真集が出たのですね。その1ページ目が日本選手団の入場行進で、見たら私、見事に半歩遅れてました(笑)。
川淵 ははは、50年以上経って真実を突き付けられたと。その行進の写真、僕は前から9番目、右から4番目にいます。あれは背の順だったけど、みんな、行進する晴れ姿がスタンドから見えやすい右側にいきたがった。僕は気にしなかったけど。女子も、行進は背の順ですか。
谷田 はい。私は168㎝とバレー選手としてそんなに大きな方ではないので後ろから3番目か4番目の列。ただ、私は正直に申しますと、開会式の印象はあまり……。すごく待っている時間が長かったので「早く始まって、早く終わればいいのに」とそればっかり思ってました。
君原 早く練習したいと。
谷田 はい。当時はそう思ってました。ただ、今になってみればやっぱり開会式は1番の華ですから、出ていてよかったと思います。
川淵 うん。今はサッカーなどいくつかの競技では、開会式の前に予選が始まってしまって、あの晴れやかな舞台に出られない選手が結構いるでしょう。あれは相当不幸なことだなと僕は思いますね。
選手は代々木の米軍居住地域「ワシントンハイツ」の跡地にできた選手村に入りました。米軍将校が住んでいた一軒家をそのまま利用したから快適で、何より家の前に芝生が敷いてありました。当時は砂のグラウンドで練習するのが当たり前だったから、芝生の上でボールを蹴れるのが嬉しくて。ずっとリフティングしてたな(笑)。それからディスコもあった。日本人選手は羨ましそうに外国選手が楽しく躍っているのを眺めているだけでしたけど。無料の床屋さんもありましたね。
君原 映画館もありましたよ。私が入った時に偶然ローマ五輪マラソン金メダリストのアベベ選手もいたんですが、上映の途中で帰ってしまったのです。夜だったので、就寝時間が迫ってたのかもしれませんけど、これからクライマックスという場面だったので驚きました。
アベベさんとはその2年後にソウルで一緒にマラソンを走る機会がありました。その頃、私は毎日ビールを飲んでいましたら「ビールを飲むのはよくない」と説教されたことがあります(笑)。
谷田 ストイックなアベベ選手らしい話ですね。
初めてのビフテキ
川淵 選手村一番の楽しみは何と言っても選手食堂の食事でした。あれは本当に美味しかった。
君原 日本中のホテルの1流シェフが集まり、最高の食材を調理してくれました。あの時に私はバイキングというのを初めて知りました。
川淵 僕もビフテキやエビチリなんてあの時まで食べたことなかった。検見川でサッカーの代表合宿をしていた時に出た最高の食事は豚肉のソテーで、それが御馳走だったんだから。晩御飯の時間が決まっていて、シェフたちも絶対に冷めたステーキは出さなかったね。
君原 当時珍しい、冷凍食品を使ったんですよね。全国から集まったシェフが五輪後にまたそれぞれの地方に戻って、選手村で学んだノウハウを生かしたから、地方の食文化の向上に成果があったと聞きました。谷田さんは何が好きでしたか。
谷田 私たちはそのお料理を食べたことがないんです。選手村には1日入っただけで、2日目からはいつも東京に遠征した時に泊まっていた旅館に移ったものですから。
川淵 え、そうだったの?
谷田 はい。私たちは選手村に入ってみたかったんですけど、監督が女はそういうところだと、ワーワーキャーキャーで気持ちが吹っ飛んでしまうから、ダメだと。私たちは旅館でしたから普段通りの和食を食べていましたよ。
川淵 あのビフテキの味を知らないのか。もったいない(笑)。
仏の大松になる時
谷田 ただ私たちの旅館でも1度ステーキが出たことがありました。監督がお願いしたのか、女将が特別に用意してくれたのかわかりませんけど。当時は河西さんがお肉を食べられなくて、果物や野菜しか食べなかったので、河西さんのお肉は私がいただきました(笑)。
君原 女子バレーは五輪期間中の楽しみは何がありましたか?
谷田 何もなかったです。練習が終わって、旅館に入れば食事してお風呂に入って寝るだけ。テレビで他の競技を見たり娯楽を楽しむことはありませんでした。そういう所に神経を使うなという監督方針でした。
川淵 やっぱり厳しいね。東洋の魔女が強かった理由がわかる。
谷田 ただ、世間では監督は鬼と呼ばれてましたけど、私たちはそこまでではないと思ってました。仏の大松になる時もあって。
月に1、2度、全員で南海電車に乗って難波の映画館にいき、監督の好きな映画を見に行ったこともあります。「ベン・ハー」などの大作がかかると私が新聞の映画欄を見せて交渉役となり「監督、行きましょう」と。そうすると監督は「行きたいんやろ、そんなら行こか」。監督の気が変わらないうちに急いで靴を持ってきて、「さあ、早く行きましょう」とやってました。それで監督は食い入るように映画を見てたけど、私たちは上映中は皆寝ていて。映画の後に、監督のポケットマネーで食事に連れて行ってもらうのが楽しみでした。デザートにアイスまで付いた。でも、あまり喜ぶと午後10時に寮に戻った後に練習が始まるからはしゃぎすぎないようにしてました(笑)。
せっかくの祭りなんだから
君原 当時、私は精神的に非常に未熟でオリンピック選手にあるまじき2つの恥ずかしい行動をとってしまったんです。
川淵 おや、これは改まって。何があったんですか。
君原 マラソンは陸上競技の最終日に行われます。日程が消化されていくと試合を終えた選手が多くなるため、選手村がざわついてくる。そうした環境はよくないとコーチ陣が気を使って、レース1週間前にマラソンチームは神奈川県の逗子に移って調整することになったのです。しかし私は「オリンピックは世紀の祭典。せっかくの祭りなんだから」と、午前中に練習が終わると、電車に乗り、2時間かけて他競技の試合を観に行ったのです。陸上、バレー、水泳と手当たり次第に観ました。あまりの熱中ぶりに、コーチが私を選手村に戻したほどでした。
川淵 君原さんと言えば真面目一徹というイメージでしたけど、そんなことがあったんですか。
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source : 文藝春秋 2020年1月号