対話なき“上級国民”家族の悲劇

ニュース 社会
 2019年12月16日、長男を刺殺したとして殺人罪に問われていた元農林水産事務次官・熊沢英昭被告(76)に、懲役6年の実刑判決が言い渡された(検察側は懲役8年を求刑)。

 熊沢被告は同年6月1日、東京都練馬区の自宅で、ひきこもり状態にあった長男(当時44)の首や胸などを包丁で何度も刺し、失血死させた。殺害に至る直接の原因は長男による家庭内暴力だったとされ、世間からは熊沢被告への同情論が集まった。判決から4日後、東京高裁は保釈を認める決定を下し、同日午後に被告は保釈された。殺人罪の被告に対しては異例の対応といえる。

 筑波大学の斎藤環教授(社会精神保健学)は、精神科医として、30年前から不登校やひきこもりの問題に関わってきた。

「これ(殺害)しかほかに方法がないと思います」

 熊沢被告は殺害の直前、そのようなメモを残していた。事件はどうすれば防げたのだろうか――。
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12月20日に保釈された熊沢被告

息子への謝罪を語らない熊沢被告

 公判の模様を伝える報道のなかで、私が注目したのは、熊沢被告から殺害した息子に対する謝罪の言葉が一切出てこなかったという点です。その代わり、被告人質問では次のような発言がありました。

「できるだけ寄り添ってきたつもりだが、思うようにならないつらい人生を送らせた。かわいそうに思っている」

 公判での話は、どれだけ自分は息子のために努力してきたか――という内容に終始したという印象があります。それらの言葉からは「半人前の恥ずかしい息子が世間様に迷惑をかける前に、自分の手で始末しました」というニュアンスが、どうしても透けて見えました。これでは息子を所有物扱いしているのと同じです。本来なら、息子自身の尊厳について触れる言葉があってもよかったはずですが、そのような言葉はありませんでした。

 熊沢被告は、自分のとってきた行動がいかに息子を苦しめていたのか、最後まで気づくことが出来なかったのでしょう。この点が私には残念でなりません。

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斎藤氏

 この事件は、「殺した父親が加害者で、殺された息子が被害者」という単純なものではありません。父親と息子が、どちらも加害者であり被害者だという構図があります。ここにこそ、ひきこもりの家族が抱える問題が表れています。

酷似する2つの事件

 実は約40年前、今回の事件とほぼ同じ構図の事件が起きています。1977年の「開成高校生殺人事件」です。都内有数の進学校である開成中学校・高校に進学した息子が次第に家庭内暴力をふるうようになり、「このままだと殺される」と考えた父親が、息子を絞殺したというものでした。当時、父親には同情論が集まり、裁判では執行猶予つきの懲役3年が言い渡されました。

 殺された息子が進学校に通っていた点、家庭内暴力をふるっていた点などで、この2つの事件は酷似しています。だからこそ熊沢被告に言い渡された懲役6年という量刑は、開成の判例と比べると「厳しい」という印象があります。

 ただ、両者には決定的な違いが1つあります。それは、問題の解決を目指して「第三者」を介入させたかどうかという点です。

 開成高校生の事件では、父親は専門家の助言に従って息子を立ち直らせようとしており、努力した姿勢が見られました。それに対して今回の事件では、熊沢被告は息子について公的機関や専門医に相談した形跡はありません。元官僚トップという“上級国民”の家庭だけに、「身内の恥を晒したくない」という思いがあったのかもしれません。

 判決において、裁判官は次のように述べています。

「長男の暴力を主治医らに相談するなど対処方法があった」

 両親が息子の問題を丸抱えにし、彼らまでもが家庭内にひきこもってしまったのは、明らかに間違った行動でした。息子の殺害という最悪の結果に至るまでに、もっと出来ることがあったはずです。「懲役6年」という長さは、その責任を反映したものだと見ることも出来ます。

 では熊沢被告は具体的にどのような行動をとるべきだったのか?

 事件に至るまでの流れを追いながら、考えてみましょう。

 そもそも熊沢家は、子供がひきこもりになりやすい典型的な土壌があったと考えられます。家を不在にしがちだが精神的に抑圧してくる父親、そして過干渉の母親というペア。高級官僚である父親の存在は、息子の劣等感を醸成した可能性があります。一方で母親は教育熱心で、成績が悪いとオモチャを取り上げて壊すなど、行き過ぎた行動もあったようです。しつけと虐待の境目が非常に曖昧で、この点では息子に同情の余地があると思います。

「アメ」と「ムチ」

 報道によると、息子は大学時代からひきこもりになりがちで、アニメの仕事を探したものの上手くいかず、熊沢被告が親戚のつてを頼って就労支援施設での仕事を見つけたそうです。ところがその後、息子がインターネットに上司の悪口を書き込んだのが問題となり、父親自身が本人を退職させています。息子がひきこもりに戻ってからは、息子のコミックマーケットへの漫画の出品を熊沢被告が手伝っていたこともあったようです。

 この一連の行動は、一見、息子のためを思って甲斐甲斐しく世話を焼く父親と見えるかもしれません。しかし、熊沢被告の息子への介入の仕方は一貫性がなく、その場その場の思いつきでやっている感が否めません。寄り添いたいのか、突き放してしつけをしたいのかが分からない。最も問題なのは、本人の自発性や主体性を尊重する姿勢が全く見られないことです。

 それを象徴しているのが、生活費の支援でしょう。殺された息子のツイッターには次のような投稿が残されていました。

〈323,729円 これが今月の私のクレカの支払額だ。 君達の両親が必死で働いて稼ぐ給料より多いんだよw〉

 この支払いは両親が全額負担していたようです。これほど高額の支援を続けていたら、息子の自活力はいつまでも育たないままです。ここにも、先々のことを全く考えていない場当たり感が見られます。

 つまり彼らは、「アメ」と「ムチ」の使い方を決定的に間違えている。経済的な支援で「保護」を与えているつもりが、その支援が子供の将来を限定するという「抑圧」になっているのです。

誰かに止めてほしい

 今回、殺害に至った直接の原因は、息子の「家庭内暴力」でした。

 家庭内暴力で多いのは、親自身が子供を刺激し、暴力を誘発してしまっているケースです。率直に言って、今回の事件もそうである可能性が高いと思います。そもそも同居を開始してすぐに家庭内暴力が始まっていること自体、かなり珍しいことです。公判での母親の証言によると、熊沢被告が同居を始めた息子に「(前に住んでいた家のゴミを)片付けなきゃ」と注意したところ、暴力が始まったそうです。これは推測ですが、母親も「同居するんだから、もっとしっかりしてもらわないと困る」などと軽い嫌味を言ったのではないでしょうか。このように両親が息子を責めたり批判する姿勢が、息子を刺激してしまったのでしょう。

 家庭内暴力に向き合う態度の基本は、「拒否」の姿勢、つまり「私は暴力を受けたくない」と示すことです。それでも状況が激しくなるようであれば、ためらわず警察への「通報」をおこなってください。こう言うと、後で復讐されるのではないかと躊躇する親御さんもいます。ですが、暴力をふるった子供は一過性の爽快感を感じるものの、その後は絶望的な不快感に苦しんでいることが多いのです。「誰かに止めてほしい」という思いを実は心の中に持っている。家庭内暴力は薬物中毒に似たような部分があって、悪いと分かっていても止められないのです。通報して他人が介入してくると、意外とすんなり諦めることが多いです。

 家から「避難」し、ホテルなどに泊まるのも1つの手です。ひきこもりの子供は、親から見捨てられては1人で生きていけません。そのことを自分でちゃんと分かっているからこそ、親がいったん突き放す態度をとれば、子供は危機を感じて暴力をストップさせます。

 ただし、避難の期間はせいぜい1週間が上限となります。長年暴力に耐え続けてきた親御さんが、1度逃げてしまってその気楽さを味わうと、もうあの日々に戻りたくないと「別居」を選ぶことが多くあります。一時的な避難はいいですが、別居は最悪の選択肢です。そうなると、事態の収拾がつかなくなります。

 このように、ひきこもりの家庭内暴力は、適切な介入と対応をすれば意外と簡単になくすことができます。過去10年間にわたり暴力を続けた人でさえ、「通報」と「避難」でピタッとおさまりました。

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source : 文藝春秋 2020年2月号

genre : ニュース 社会