リズムが乗り移る

第86回

藤原 正彦 作家・数学者

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ライフ 社会

■連載「古風堂々」
第81回 藤井君と引き分け
第82回 日本が日本であり続けるために
第83回 人間のクズ
第84回 断言
第85回 恵まれた立場ならばこそ
第86回 今回はこちら

 数学者の私がどうしてものを書き始めたのか、と時折尋ねられる。小中学生の頃、作文が特に得意というわけでもなかった。ほめられたのは中学三年生の時、若く目の覚めるほど美しい非常勤の女性国語講師に、夏休みの作文を激賞されたことだけである。これとて、私の頭の中では彼女が年々より美しく、ほめ方も年々激しくなっているから、真実は普通の先生に普通にほめられただけかも知れない。本を読むことは好きだったが、書く方は旅先から必らず両親に絵葉書きを出すくらいのものだった。

 それがアメリカの大学で三年ほど研究教育に携わり帰国した直後の頃、両親と三人で夕食を囲んでいた時、父が「アメリカでの生活についてまとめておいたらどうだ」とだしぬけに言った。訝りつつ父を見ると、「アメリカからのお前の手紙がすべて面白かった。もしかしたら書けるかも知れない」と言う。確かに三年間に五十通くらいは父母宛てに便りを出したが、それが面白ければなぜ書かねばならないのか分からなかった。「あれ」かも知れないと思い身構えた。中学二年の頃、夕飯時にしばしば父が私に学校での出来事を根掘り葉掘り尋ねた。ほとんど毎日、何かの騒動に巻き込まれているような生活を送っていた私には話の種が尽きなかった。「旧兵舎だった安普請の校舎の羽目板を空手で殴ったら割れちゃった」、「友達四、五人と狭い農道を歩いて帰る途中、道に何台もの自転車がうず高く積まれていて通れなくなっていたんだ。『K中学の奴らの待ち伏せだ』と仲間は大慌てで遠回りの大通りに逃げちゃったから、それなら俺一人で退治してやろうと自転車の山を踏んで帰って来たけど誰も出て来なかった」、「国立競技場での陸上競技大会に学校代表として砲丸投げに出る予定の僕が、昼休みの教室でフォームの研究をしていたら、うっかり砲丸を落とし床に丸い穴を開けちゃった」、「戦前に使っていた十メートルほどの給水塔のてっぺんにこっそり登り、おしっこしたら気持よかった」、「生物の時間に、各班にメダカ一匹が入った水槽を配られたんだけど、見ていたら急に食べたくなり食べちゃった」……。父は「困った奴だ」と笑いながらも状況を詳しく尋ねるのだった。

 その頃、直木賞をとったばかりで駆け出しの作家だった父は、『中学三年コース』という高校受験雑誌に連載を書いていた。二年生の私はこの雑誌を開かなかったが、翌年にこれが単行本となったので手にとった。何と、私の話したことが中にちりばめられていた。「謀られた」と私は憤慨した。この腹立たしい思い出があったから、今回もあの時と同様、家族までをのぞき見する作家の「いやらしさ」と思ったのである。ところが父に執筆を勧められてしばらくすると、父への猜疑心はあったものの、私にとって最後の青春でもあったアメリカでの波瀾の三年を、書き下ろすことで清算したいという思いが湧いてきた。その思いは日に日に高じ、ついに書かずには日本での再出発がままならないとまでになったのである。試しに五十枚ほどを書いて父に見せると、「文章は稚拙な点も多いがとにかく最後まで読む者を引張る力がありとてもよい、俺の文章に似ている」とうれしそうに言った。

 父は以前から、できたての小説原稿の批評は編集者に頼み、随筆の方は母に頼んでいた。ところが母が、「何、この下手糞な原稿」「三文作家」などと辛辣な批評ばかりするのに腹を立て、大学生になった頃から私がその役を命ぜられていたのである。父の原稿を何年も精読していたから、父の文章のリズムが私に乗り移ったのだ。期せずして絶好の文章修業となったのだろう。大長篇を一気に精読するより、長期間にわたり一人の作家の作品を少しづつ精読する方が強い影響を受けるようだ。

 父の文章に似過ぎたせいか、処女作の『若き数学者のアメリカ』が出た翌年、学会で会った数学者で大学時代の同級生に「藤原の読んだけど、どうせ親爺さんに書いてもらったんだろう」とニヤニヤしながら言われた。慌てて否定したが、数学と文学は北極と南極ほどに遠いと思われているから、そう思った仲間は他にもいただろう。その三年後に彼に会った時にも、「藤原、親爺さんに書いてもらったこと、もうそろそろ白状した方がいいぞ。いつまでも真実を隠しているのは苦しいだろう。白状しちゃえば楽になるぞ」と親切に言われた。学会で会う彼が親切な助言をしなくなったのは、父の没後に私が数冊の本を出版してからだった。

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source : 文藝春秋 2026年7月号

genre : ライフ 社会