人間のクズ

第83回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 社会

■連載「古風堂々」
第78回 百助主義
第79回 落ちる人、落ちない人
第80回 紫外線いまむかし
第81回 藤井君と引き分け
第82回 日本が日本であり続けるために
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 父は時間厳守の人だった。私は幼い頃から「約束時刻の五分前までに必ず行け。これを守れないような奴は人間のクズだ」と繰り返し言われた。これを忠実に守った私は折り目正しい好青年だったに違いない。二十九歳の時、ミシガン大学ルイス教授の招きで渡米した。アメリカでは、遅刻しては自らが人間のクズになるばかりか、日本人全体の品性が見下される、と常に約束時刻の五分前には到着するようにした。パーティーではいつも招待客中の一番乗りだった。人々は私そして日本人の高い品性に印象づけられていたはずだった。翌年コロラド大学助教授になった私は、持前のユーモアですぐに人気者となった。月に二、三度は週末に同僚の家でのパーティーに招ばれた。ある夕方、最も親しかった世界的数学者の家に招かれた私は、いつも通り定刻の十五分ほど前に教授宅前に着き、路肩に停めた車の中でしばらく待機し、定刻五分前に車を出てドアをノックした。いつも通り一番乗りだった。教授が私に微笑みながら、「マサヒコ、時間厳守は素晴らしいけどね、パーティーでは少し遅れた方がもっと素晴らしいかも知れないよ。定刻前は、どこの奥さんも料理が間に合わず焦っているからね」と言った。渡米以来一番乗りを繰り返してきた私は、品性は高かったが鈍感だったのだ。京都では、他人の家を訪れる時は「髪の毛一本遅れて行きなさい」と言われるのを、当時は知らなかった。

 パーティーを除き時間厳守は守られていたが、学生は違った。留学生が多いからである。工学部二年生の授業中、五分ほど遅れて教室前方の入口から入室した学生がいた。「傍若無人な奴だ。遅刻者は目立たぬよう後方からそっと入るものなのに」と思っていたら、この学生は講義中の私と黒板の間を通って目指す席に向かった。中近東からの学生だった。この時、周囲の学生よりやや老けたヒゲ面の男が鋭い声で𠮟責した。皆がシーンとなった。後日このヒゲ面が質問に私の研究室を訪れた。「先日はありがとう」と言ったら、「いいえ。中近東や中南米の連中は時間にだらしないんです。私はベトナム帰りですが軍隊じゃ一分の遅刻も許されません」と言った。「ところで君はベトコンを殺したことはあるの」「沢山、沢山」「ベトコンはどんな顔してるの」「あなたみたいな」。気味悪いので早目にお引き取り願った。

 アメリカで三年間研究教育に携った後、十年ほどして英国のケンブリッジ大学へ行った。電車が十五分ほど遅れるのは正常とみなされていたが、世界に轟く日本の交通機関の時間厳守に慣れている私にとっては驚きだった。氷雨降るロンドンから陽光に輝く地中海岸へ行った時は呆れ果てた。スペインの航空会社だったが、午後三時発が遅れに遅れ午後九時出発となったのだ。七、五、一歳の幼子を心配しながらマラガ空港に着いたのは真夜中で、ここでレンタカーを借り、百キロほど離れた古都グラナダのプチホテルに着いた時は午前二時を回っていた。日常茶飯事なのだろう、レンタカー店もホテルも普通に営業していた。

 日本人が昔から時間厳守だったかと言うとそうではない。幕末の長崎海軍伝習所で、勝海舟や榎本武揚を教えたオランダ海軍のカッテンディーケは、『日本滞在記抄』の中で、「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」と嘆いている。当然であろう。我が国の時刻は江戸時代になっても、夜明けから日暮れまでを昼、日暮れから翌日の夜明けまでを夜として、それぞれを六等分したものを時刻として用い、これを城や寺などが鐘や太鼓で知らせていたからだ。これでは冬至の頃と夏至の頃では昼夜の長さがまるで違うので、季節により時間が全く異なることになる。日暮れや夜明けの定義もはっきりしない。我が国で現在のような季節によらない時刻が用いられるようになったのは、太陽暦が施行された明治六年からだから、江戸期までの人々にとって時刻とは目安にすぎなかった。会議の時刻になってもタバコを吸ったり談笑している侍たちを見て、カッテンディーケが嘆息したのも仕方ないのだ。ただ、カッテンディーケのヨーロッパだってかつては日時計が主で、十四世紀頃に機械式時計が教会で広範に使われるようになり、教会の塔が時刻の数だけ鐘を打ったから、人々はやっと季節によらない時刻を知ることになったのだ。十八世紀にはぜんまいを用いた懐中時計が広まり、これにより工場の始業終業時刻、納期などを示すことが可能となり、産業革命や資本主義が一気に発達した。我が国の産業革命がスパートしたのも明治初期に「時間」というものを人々が手にしてからだった。

 私はこの「時間」を大切に思うが故に、「時間厳守」を今も守る。父も私も原稿の締切りに間に合わなかったことは一度たりともない。私はこの家訓を子や孫にしっかり伝えようとしている。ところが肝心の息子達は小中高を通して遅刻常習犯だった。完全に女房のせいだ。婚約中の頃、新宿の紀伊國屋前で夕方六時に会い食事を一緒にすることになった。私はうれしくて二十分前から待っていた。彼女は定刻に現れない。三十分待っても現れない。怒り心頭となった私は「人間のクズめ、断固断然決然婚約破棄だ」とつぶやくと大股で帰路についた。と、はるか背後から「ごめんなさーい」という声が聞こえた。振り返ると人間のクズがこちらに向かい走って来る。しかも屈託のない笑顔だ。何とこの瞬間、煮えたぎる憤怒が消え、「どうしたのかと心配しちゃったよ」などと言いありったけの笑顔で迎えたのである。私の類い稀な寛大さであり、若気の過ちでもあった。

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source : 文藝春秋 2026年4月号

genre : ライフ 社会