佐藤栄作(さとうえいさく)(1901―1975)は山口県生まれ。長兄は佐藤市郎(いちろう)(海軍中将)、次兄は岸信介(首相)、寛子(ひろこ)夫人は松岡洋右(まつおかようすけ)(外相)の姪である。鉄道省に入り運輸事務次官まで昇進。第二次吉田茂内閣の官房長官に国会の議席なしで抜擢される。自由党幹事長のとき「造船疑獄」に連座しかかるが、法相の指揮権発動で助かる。蔵相などを経て、昭和39(1964)年11月首相となる。以後、7年半の長きにわたって政権担当。沖縄返還の功績によりノーベル平和賞受賞。
龍太郎(りゅうたろう)氏は長男。JR西日本常務。
沖縄返還は、父の政治生命をかけた念願でした。しかし父が、いつ沖縄返還に佐藤内閣の命運を賭けようと思ったのか、実はさだかではありません。政権成立前から密かに思っていたのかもしれませんが、政治を食卓の話題にするはずもなく、私ども家族にもわからないのです。

父が沖縄返還の決意を世間にはっきり表明したのは昭和40年8月19日、日本政府の首相として初めて沖縄を訪問したときでした。日航特別機で那覇空港に降り立った父は、
「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持です」
とステートメントを読み上げました。しかし父を迎える沖縄の空気は厳しく、宿舎の東急ホテルの前にはデモ隊2万人が座り込み、その夜、米軍基地内の迎賓館に泊まらざるを得ませんでした。父は激しいショックを受けましたが、それでも本島を離れて島々を回ると、子供たちが日の丸の小旗を振ってくれている。めったに涙を見せない父が、感激のあまりずいぶんと泣いたようです。
それ以後、沖縄問題はマスコミでも、政府・与党のなかでも激しい論争となりました。野党の要求する「核抜き本土なみ」返還で対米交渉に踏み切り、それを達成できたのは、父がアメリカの核戦略の動向を見通していたからだと思います。その先見力が父にあったのは、各層を通じてアメリカとの返還交渉を進めるなかで、豊富な情報システムを作り上げ、最高責任者として決断を下していたからです。父は、オルガナイザーとしての資質をもっていました。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

