元首相の岸信介(きしのぶすけ)(1896―1987)は東條内閣の商工大臣であったことからA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監された。3年3ヶ月におよぶ勾留の後、不起訴処分となり、1948年12月24日、釈放される。長女の洋子(ようこ)氏は外相などを務めた安倍晋太郎夫人。安倍晋三元首相の母でもある。洋子氏が、娘から見た父の意外な一面を明かす。
父の遺品に、手のひらに乗る蓋つきの小箱がございます。一見、陶器で出来た、お茶入れのように見えますが、実はみかんの皮で作られたもの。底に「信介作 鴨獄」とありますように、父が自らの手で、監視の目を盗んで、巣鴨の獄にて作ったものです。

なんでも散歩の時間に、庭の片隅でガラスの破片を見つけ、こっそりと房へ、持ち帰ったのだとか。それを刀の代わりにして、食事に出されたみかんを細工したのだと聞いております。
まず、ヘタから1センチほど下を水平に切り、内側を綺麗にくり抜く。次に紙をちぎって水に浸したものを幾重にも貼り付けていったそうです。食事の際、ご飯粒を少しずつ残して、それを練り潰したものを糊にしまして。

もちろん、それまで家でこのようなものをこしらえた事などございません。器用な父ではないと思っておりましたのに、つくづく、よく考えついたものだと思います。それにしても、明日には死刑が確定するかもしれないという日々の中、みかんの皮で小箱を4つ、5つと人目を忍んで作る、当時の父の心中とはどのようなものだったのでしょうか。
私たち一家が激しくなる戦火を避けて、疎開し、終戦の日を迎えましたのは、父の故郷、山口県熊毛郡田布施町(たぶせちょう)でした。父が戦犯容疑者として逮捕されたのが翌、9月半ば。これが今生(こんじょう)の別れかもしれない。そんな悲壮な思いで後姿を見送りました。
山口から、横浜刑務所へ、次に大森の旧陸軍捕虜収容所、さらには巣鴨プリズンへ。父は移送されてゆきました。
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source : 文藝春秋 2007年9月号

