著名人が父親との思い出を回顧します。今回の語り手は、北康利さん(作家)です。
商社の石油子会社に勤めていた父は、ガソリンスタンドで働いている時代が長かった。一度、青い作業服で家に帰ってきたとき、小学生の私は学校で習ったばかりの言葉でこう言ってしまった。
「おとうさんはブルーカラーやねんな」
私の前では素知らぬふりをしていたが、とてもショックだったようで、あとで母親からこっぴどく叱られた。
「中小企業や子会社の苦労を知れ。ガソリンスタンドで冬の寒い日に窓を拭いてくれる人の気持ちになれ」
長じて後、よく父からそんな言葉を聞かされた。今でもガソリンスタンドで窓を拭いてくれる人には、しっかりとお礼を言うよう心がけている。
父は昔の人には珍しいほどの長身で体格もよく、高校時代、バレー部だったにもかかわらず、陸上選手の代打で砲丸投げの試合に出て優勝したこともある。また実家が農家だったので、新婚時代には米俵を肩に担いで持って帰り、道行く人がぎょっとして振り返っていたそうだ。
そんな頑健だった父は65歳の時、スキルス胃がんでわずか3ヵ月入院しただけで慌ただしくこの世を去っていった。
ある日、死を悟ったのか、彼は何の前置きもなくこうつぶやいた。
「死ぬことは怖くない。思い残すことは何もない」
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source : 文藝春秋 2020年2月号