河野多惠子さんのタバコ

選考委員退任の辞

宮本 輝 作家
ライフ 読書 芥川賞
第162回芥川賞選考会を最後に、宮本輝氏が選考委員を退任することとなった。宮本氏は1978年に『螢川』で芥川賞を受賞。1995年に戦後生まれ初の同賞選考委員となり、24年、49回にわたって多くの作品の選考に携わってきた。そんな宮本氏が、芥川賞の想い出を語る。
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宮本氏

ようやく自分の番

 先日の選考会をもって、芥川賞選考委員の席から退かせていただくことにしました。

 3〜4年ぐらい前からそろそろ自分の仕事に専念したいと思い、(賞を主催する)日本文学振興会に、退かせてほしいとお願いしていたんです。しかし、後任のことなど、振興会にも事情があるだろうから……と思っているうちに、2年前に村上龍が先に退任し、なんとなく辞めづらくなった。でも、僕も昨年3月で72歳になりました。体力的にも毎回候補作を読み込むのがしんどくなってきたと強く思った矢先に、今度は半年前の選考会で髙樹のぶ子さんがお辞めになった。ええっ! と思いましたけど、今回ようやく僕の番となったわけです(笑)。

 平成7年下半期から24年間、1回の休みもなく、半年に一度、選考会に出席してきました。僕にとって最後となる今回の選考会に、特別な感慨は持ちませんでしたけど、もし「受賞作なし」となったら、なんとなく画竜点睛を欠くかな、どうかええ作品が出ますように、と思っていたので、古川真人さんの「背高泡立草」の受賞が決まった時は正直ホッとしました。

 選考会が終わって、「さあ、これからみんなでお食事をしましょう」と、会場にお膳が運ばれてきたときは、24年間なんとか無事に責任を果たせたなと感無量でした。

 しかし、(選考会場の)新喜楽でこうやって他の選考委員とお話しすることも、もうないんかと思うと段々寂しくなってきてね。ようやく肩の荷が下りた、ああ、やれやれと思うだろうと予想していたんですけど、なんというかな、妙にセンチメンタルになったんですよ。

 翌日、伊丹市の自宅に帰り、それから数日経った今も「あの選考会ではあんなことがあった」と、思い出したりしてます。僕が推した作品が受賞した回もあれば、よしとしなかった作品が獲った回もあった。正直後味が悪い回もあったけど、今から思えば、それぞれ楽しい思い出です。これはリップサービスじゃなくてね、本当の気持ちですよ(笑)。

天下を取ったような気分

 僕が小説を書き出した20代の後半のころ、「文學界」や「新潮」「群像」といった純文学誌の新人賞というのはとても高いところにある峰でした。そんなすごいもん、本当にとれるかなあ、と思いながら書いていたんです。だから、僕はデビュー作(『泥の河』)で新人賞である太宰治賞をもらったときは、天にも昇る気持ちでした。

 でも、それよりももっともっと遠くにある峰があった。それが「芥川賞」でした。78年に『螢川』が候補になった時は、それだけで、何となく地に足がついていない状態が発表まで続いて、実際になんとか受賞したときはまさに夢見心地でした。「受賞のことば」には、今となっては恥ずかしいけど「芥川賞を受賞することが、私のひとつの夢でした」と書いたほどです。

 でもそうして「夢」をかなえてみると今度は、いつかは自分も選考にかかわる作家になりたいという気持ちが起こってきたんですね。芥川賞よりももっともっともっと高い「選考委員」という峰が現れてきたというわけなんです。

 しかし、それはとんでもなく高いところやなあと思いながら、その後も小説を書き続けていたから、実際に日本文学振興会から正式に「選考委員をやってほしい」というお話が来たときは、はっきり言って、天下を取ったような気分でした。

 初めて選考会に参加した日はよく覚えてます。意気揚々と会場へ行き、ああ、これが新喜楽か、ここにこれから各選考委員たちが集まって対峙するんやなと思いました。

 でも、そんなこと考えたのはその時だけ(笑)。選考会が始まるとすぐに、いかに自分が責任ある立場にいるかを思い知りました。自分には少し荷が重い大役だと感じたのです。以来ずっとその気持ちを抱えたまま選考委員をやってきました。だからかな、選考会は年2回しかないけど、振り返るとしょっちゅう芥川賞に関わっていた印象がある。正直、本当に疲れましたよ。

命懸けで候補作を論じる

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平成8年上期選考会、一番右が宮本氏

 僕が初めて選考会に参加した時の他の選考委員は、三浦哲郎さん、丸谷才一さん、日野啓三さん、黒井千次さん、大庭みな子さん、大江健三郎さん、古井由吉さん、田久保英夫さん、河野多惠子さん。みんな本当に怖かった。その中に入っていくのはオオカミの群れに放り込まれる乙女のような気持ちでした。しかも一緒に新選考委員として加わったのが、池澤夏樹さんと石原慎太郎さんでしたからね(笑)。

 僕は一番下座に座ったんですが、隣りが河野さんでした。河野さんは候補作について意見を述べられるときはいつも、火のついてない煙草を左手の指に挟みながら話すんです。そして段々話が白熱してくると、その左手に持った煙草を縦に小刻みに震わせる。僕は最初、自分の目の前で何度も煙草を揺らすものだから、火をつけろということかと思ったんですね。それで「そうですか」と相槌を打ちながら、ライターで火をつけてあげたんです。すると河野さんは「いらないの、煙草はいらないの、火はいらないの」とおっしゃったから僕はびっくりした(笑)。要は1つの作品について手が震えるほど興奮して論評していたわけです。河野さんは文字通り「命懸け」で候補作を論じている、これはうっかりしたことを僕が言ったら殴られるかもしれんと思った記憶があります。

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タバコを手にしているのが河野氏

 それから、当時は選考会が始まる少し前からお酒が出ていたんです。三浦哲郎さんがついつい飲みすぎてしまって、選考会が始まった途端にベロベロになってしまったこともありました(笑)。一方、今の選考会ではだれもお酒を飲まないし、数年前から禁煙になったから、ずいぶん様変わりしました。雰囲気も僕が入った時は、若い者はなんとなく反対意見を言いづらい空気がありましたが、今はそれが取り払われて、それぞれの委員が自由に自分の考えを言えるようになっていると思います。

あとは野となれ、山となれ

 選考会ではまず、候補作それぞれに各委員が○(1点)、△(0.5点)、×(0点)のどれかをつけます。点数があまり入らず、まず間違いなく外れるという作品についても、どこが悪いのか、どこが気に入らなかったのか、ということを述べ、議論を尽くします。一作たりとも「これはダメだ、次の作品にいこう」などとおざなりにすることはありません。この点は今も昔も変わらないところです。

 僕自身はやっぱり賞というのは「差し上げる」ためにあると思うし、賞をもらって一層輝いていく人や一皮も二皮もむける人がいるので、なるべく受賞作を出したいと思って選考会に臨んできました。

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source : 文藝春秋 2020年3月号

genre : ライフ 読書 芥川賞