特別再録「オリンピックの英雄たち」(後編)

川本 信正 スポーツ評論家
菅沼 俊哉 共同通信運動部長
エンタメ 昭和史 スポーツ
東京五輪まであと500日を迎えた1963年の春、それまでのオリンピックで活躍した日本の英雄たちが、当時を語り合った。今回はその座談会の最終章をお届けする。ヘルシンキ五輪での古橋廣之進の悲劇、小野喬、相原信行らが体操で金メダルをとったローマ五輪。オリンピックの輝きよ、永遠に――。

この記事に登場する人物

遊佐氏 馬術
 
遊佐幸平(ゆさこうへい)〈馬術〉
9回大会に出場。以後、監督として参加。
笹原氏 レスリング
 
笹原正三(ささはらしょうぞう)〈レスリング〉
16回大会フェザー級、股裂きの必殺技で優勝。
金栗氏 陸上
 
金栗四三(かなくりしそう)〈陸上〉
日本マラソン界の父。箱根駅伝の創設に尽力する。
吉野氏 陸上
 
吉野トヨ子(よしのとよこ)〈陸上〉
15回大会円盤投げで4位。
石井氏 レスリング
 
石井庄八(いしいしょうはち)〈レスリング〉
15回大会バンタム級優勝。この大会唯一の金メダル。
小野氏 体操
 
小野喬(おのたかし)〈体操〉
4大会で金メダル5つ。「鬼に金棒、小野に鉄棒」。
南部氏 陸上
 
南部忠平(なんぶちゅうへい)〈陸上〉
10回大会三段跳優勝。短距離、跳躍の万能選手。
織田氏 陸上
 
織田幹雄(おだみきお)〈陸上〉
9回大会で三段跳優勝。「世界人と成るべし」と遺す。
清川氏 水泳
 
清川正二(きよかわまさじ)〈水泳〉
10回大会100m背泳の優勝者。商社・兼松に入社した。
村社氏 陸上
 
村社講平(むらこそこうへい)〈陸上〉
11回大会5000m、10000m4位。
竹中氏 陸上
 
竹中正一郎(たけなかしょういちろう)〈陸上〉
10回大会5000m、10000m出場。
田島氏 陸上
 
田島直人(たじまなおと)〈陸上〉
11回大会の三段跳優勝。妻も五輪陸上選手。
兵頭氏 水泳
 
兵藤秀子(ひょうどうひでこ)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ、女性初の金メダリスト。
遊佐氏 水泳
 
遊佐正憲(ゆさまさのり)〈水泳〉
10回大会800mリレー、11回大会800mリレー優勝。
葉室氏 水泳
 
葉室鐵夫(はむろてつお)〈水泳〉
11回大会200m平泳ぎ優勝。戦後は毎日新聞社に。筆も早かった。
小池氏 水泳
 
小池禮三(こいけれいぞう)〈水泳〉
10回、11回大会200m平泳ぎ、それぞれ2位、3位。
吉岡氏 陸上
 
吉岡隆德(よしおかたかのり)〈陸上〉
10回、11回大会に出場。〝暁の超特急〟の異名を持つ。
古橋氏 水泳
 
古橋廣之進(ふるはしひろのしん)〈水泳〉
敗戦の暗さを吹き飛ばした、フジヤマの飛魚。

第15回・1952年ヘルシンキ

 戦後最初のオリンピックは1948年にロンドンで開かれたが、日本、ドイツなどの旧枢軸国は参加を認められなかった。

 日章旗が再び登場するのは、1952年ヘルシンキで開かれた第15回大会からである。

 菅沼 ロンドン大会に参加できなかったのは残念でしたね。

 村社 こんな話があるんですよ。ベルリン大会の、5000mで決勝まで進んだジャンペリニというアメリカの選手がいましてね、この人が戦争中沖縄の近くで飛行機をやられて5時間ぐらい漂流していたところを捕って大森の収容所に入れられた。ここでひどい目にあったんですが、この人が戦後、アメリカに帰って、ロンドン大会に日本を参加させろ、ということをさかんにいっているんです。スポーツマンはみんな同じ気持だったと思いますが、心を打たれましたね。

 織田 ハワイの邦人が金を送ってくれたりしたものです。結局、復活のキッカケになったのは、昭和24年に古橋君たちがロスアンゼルスに行ったことですね。そのあとぼつぼつ各種目が国際的に復活して行き、ヘルシンキ大会参加になるわけです。

 川本 古橋さんが昭和23年に400、800で世界記録を出し、24年にロスで1500でまた記録を作ったんですが、日本の世情はあれで一度に明るくなりましたね。

 織田 ロンドンには行けなかったが、古橋君の世界記録が出るし、三段跳で長谷川敬三君がロンドンの優勝記録をしのぐ15m62を出す、ということで、にわかに気勢があがったもんでしたよ。

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ヘルシンキ五輪・練習を終えた古橋廣之進

 川本 古橋さんはいつごろから泳ぎ出したんですか?

 古橋 終戦後すぐ多摩川で泳いでいましたが、正式には21年からです。日大プールでやった3大学対抗というのが最初です。当時神宮プールは進駐軍に接収されていて使えなかった。あの頃は役員といったってほんの数人だけ、観客も近所の子供が来る程度、淋しい大会でした。それに国際水連に復帰していないから、記録を出しても正式に認めてもらえないんです。おまけに、今考えると夢みたいな話ですが、パンツがないんです。だからフンドシで泳ぐよりない。そのフンドシだって手に入りにくいんですよ。

走るうちに雑念が

 織田 吉野さんは戦前からですね。

 吉野 ええ、そうなんですが、終戦間際に兄が戦死しまして、戦後しばらくは何も手につかない状態でした。それに、私は山梨の高校の寄宿舎の舎監をやっていまして、食糧の買出しで練習どころじゃなかったんです。そんなわけで、競技会に出たのは21年からでした。

 菅沼 あなたは初めは短距離でしたね。

 吉野 そうなんです。ところが、あの当時は、走っているうちに雑念がわいてきて、60mくらいから走れなくなってしまうんです。それで円盤に転向するんですが、この動機がおもしろいんです。あれは23年の8月でしたか、神宮で東西対抗があったんです。そのとき円盤で山形の永井さんという人が強かったんですが、この人が出られなくなったために、「お前出ろ」といわれたんです。何しろ円盤は一度も投げたことがないんですよ。それで盲蛇におじずでやってみたんですが、35m飛んだんです。当時の最高が36mですから、投げた私も驚きました。この大会の100mで私は4位、そんなこともあって円盤に変ってしまったんです。

 菅沼 石井君のレスリングはいつ頃から?

 石井 21年からです。20年に復員して翌年大学に入ったのです。中学のとき柔道をやってたので、柔道を続けようと思っていたら、当時は柔道は禁止されていて、柔道場の片隅でレスリングをやってるんですよ、10人くらいで……。そこに中学の柔道部の先輩だった人がいまして、そんな関係でやるようになったんです。

 菅沼 柔道や相撲からレスリングに入った人は多いですね。笹原さんは剣道からでしょう? ちょっと珍しいですね。

 笹原 いや、剣道やってましたが、中学3年で禁止になりましたから、段を取っていないんです。だから戦後はやはり柔道です。町道場へ週3回ばかり通って……。大学に入ってからはレスリングだけです。

 川本 小野さんの体操歴は?

 小野 終戦の年、中学1年でしたが、その時からです。僕は秋田県の能代中学ですが、この学校は明治神宮の体操大会で3度ぐらい優勝した伝統がありまして、町全体が非常に関心が深いのです。優勝したときなんか町中をねり歩きましてね、子供たちはみんな体操選手に憧れていたわけです。中学3年のとき、大阪の国体に出て、個人で2位になったわけです。これではっきりコースがきまったんですね。

古橋君たちに催眠術

 小池 古橋君たちの水泳が戦後最初の国際試合ですが、ロスだったということはよかったね。あそこのプールは泳ぎやすい。

 清川 あのとき僕も行ったんだけど、僕は古橋君たちに催眠術をかけたんですよ。ここはオリンピックのとき日本の選手が最高記録を出したところだぞ、って……。そしたらなんと、今までの記録を1分以上も更新しちゃった。あのとき橋爪君(四郎・ヘルシンキ1500自由2位18分41秒4)が予選でトップになったとき、アメリカではラストラップのとき、ピストルを撃つんですが、あまり速いんで撃てなかったくらいでした。古橋君のときもタイマーが1往復足りないんじゃないかっていう表情でさかんに見直してたな。

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前列中央が古橋氏、前列右端が橋爪氏。

 竹中 その次はレスリングでしたかな、国際試合は?

 石井 ええ、25年にアメリカのチームを招待して、その翌年に私たちが今度はアメリカに行ったのです。

 織田 僕も古橋君一行と渡米して、向うのスポーツ界をいろいろ見たんですが、今やスピード時代であるということを痛感した。そこで八田君(日本レスリング協会会長)に言ったんだ。そしたらアメリカを呼ぼうということになったのですよ。

 石井 たしかに、アメリカとやるまでは、力のレスリングだったんですが、アメリカとやってからスピードと技に変った。これが日本のレスリングの急激な進歩の原因ですね。

白夜に参った

 菅沼 ヘルシンキ大会のときは、私も行ったんですが、日本の在外機関が全然フィンランドになかったから、不安でしたね。

 川本 そうなんだ。しかし、行ってみたら大歓迎だったな。さっき村社さんのお話があったけど、フィンランドは日本びいきですからね。ほっとしましたね。

 吉野 通訳をしてくれた牧師さんが東京にいた人でしたね。

 川本 サブライネンという人、小石川の教会にいた人なんです。

 古橋 ただ、飛行機が南まわりで、遠まわりだったから、辛かったですね。

 小野 私は酔って苦労しました。それで急性の蓄膿症になって、向うで手術したんですよ。試合の2、3日前までめまいがして、ろくすっぽ練習もできない始末で、フラフラの状態で試合に出たんです。

 菅沼 それで跳馬は銅メダルとったんだから大したもんですよ。

 小野 いや、あの頃は若かったからですよ。20歳ですものね。

 織田 宿舎が1つの部屋に7、8人一緒でしょう、あれはみんな困ったな。女子はましだったけど……。

 古橋 それと白夜……。

 石井 あれには全く参った。

 竹中 マラソンの話が出たが、僕はあのとき監督でいってたんだが、参ったね。前の年に田中(茂樹)がボストン・マラソンで優勝しているから、世界中が日本を優勝候補と思っているわけですよ。ヘルシンキに着いたらさっそくインタビューにくるんだよ。だから、30分を切ることが目標だ、30分切れば入賞できるだろう、といったんだが、聞いてくれないんだ、本当のことをいえっ、てね。

 菅沼 ボストンの田中君の記録が2時間27分ぐらいでしょう、だから謙遜だと思ったんだろうな。

 竹中 そうなんだ。みんな日本が絶対強いと思ってるんだな。これが選手の気持に負担をかけちゃった。こっちは謙遜でも何でもなく、本当のことをいっているのに、まわりが騒ぐもんだから、選手がすっかり意識しちゃった。僕はゴール前10キロのところで見ていたんだけど、ザトペックがトップですよ、20人以上通ったあとで西田(勝雄・25位)が来、山田(敬蔵・26位)が来た。ところが内川が一向に現われないんだ。結局、途中で棄権していたんだが、僕はひょっとしたら通るのを見落したのかと思ってね(笑)。まあ一応最後まで見届けてスタジアムに戻ったら、3人に泣きつかれてね、困ったな、あのときは。

 川本 古橋さんは悲劇の主人公というようにいわれたのですが、やはり責任を意識しすぎたことが大きかったのですか?

負けるべくして負ける気が

 古橋 いや、私は行く前から、予選を通ればいい方ではないか、と思っていたんです。最大の原因は25年にブラジルに行ったとき、アミーバ赤痢にかかりまして、これを注射でなおしていたんですが、なかなか治らない。それでそのまま各地をまわって最後にアメリカのエール大学で泳いだんです。ところが、あとで疲れが抜けないんですよ。これはいけないな、と思って、26年に大学を卒業したとき、もうやめようと決心したんですが、みんなから来年のオリンピックまでやれと引きとめられまして、思い止まったわけなんです。その気になって、それまでの倍以上練習をやって体力の回復を計ったんですが、結局だめでした。疲れるし、頑張ってやろうと思っても力が出ないんですよ。それで1500はあきらめて400と800リレーにしぼったんですが、400でも決勝に残れるとは思わなかった。

 菅沼 フランスのボワトーが優勝するとは思わなかったな。

 古橋 いや彼は強いと思っていましたね。ボワトーとコンノの2人のどっちかだろうと思ってました。みんな僕が本命だといってましたが、自分ではわかっていましたね。だから責任が重すぎた、というより、体力の限界ですね、僕の場合は。負けるべくして負けるような気がしたので、がっくりくるようなことはなかった。800リレーの方は、200泳げばいいし、それなら自信があったのですが、結局、調子が悪くて谷川君と変ったんです。

 川本 水上では鈴木弘君が100m自由形で同着2位、橋爪君が1500で2位、800リレーで2位、金メダルはとれなかった。

 村社 ヘルシンキのヒーローは石井君だな、大会唯一つの金メダル……。

 石井 いや、レスリングはみんなよかったですよ、全員入賞ですから。北野(フライ級)が2位、富永(フェザー)が5位、霜鳥(ライト)が6位、山崎(ウェルター)が5位。北野君の日の丸が大会初めてですね。あのときはうれしかったな。

 菅沼 石井君は優勝候補といわれていたんでしょう?

 石井 いや、入賞はできるだろう、という程度でしたね。というのは、僕らアメリカ選手とはずいぶんやったが、強いトルコとか、ソ連、イランなんかとの経験がなかったですから、優勝とは誰もいわなかったですね。

日の丸を見て落ちつく

 兵藤 吉野さんはあがりました?

 吉野 やはりあがりましたね。練習場でドイツのベルナーという人が大きいのを飛ばすんですよ。それを見ていて不安になって、そうしたら織田先生があんな気張った投げ方では絶対競技のときはうまく行かないっておっしゃるので、少し落ちついたのですけども……。

 織田 実際そうでしたよね。私は何とかあがらないような方法を考えようと思ってね、あなたは日の丸の旗を探すという……。

 吉野 ええ、私は戦前の人間ですから、いつも日の丸の下にいるという気持がありますので、バックスタンドの中央にあがっている日の丸を見て気持を落ちつけることにしたのです。予選のときはよかったんですが、決勝のとき、私順番を調べないで競技場に入ったら、いきなり名前を呼ばれたんです。あわてまして、気を落ちつけようと日の丸をさがすと、いつものところにないんです。そのときは本当にすーっと血が引いてゆくのを感じましたね。祈るような気持で眼で何度もさがしたらようやくみつかったので、ほっとしました。そうしてサークルに入ろうとしたとき、水泳の女子の選手が3人、私のすぐ上のスタンドにいて、吉野さんと手を振ってくれたんです。これで大分落ちつきました。でもやはり大分あがっていたんですね。

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source : 文藝春秋 2020年3月号

genre : エンタメ 昭和史 スポーツ