言葉が一時停止している。こんな事は初めてに近い。私は小さい頃から声帯を使うよりも指先を動かし、大事な感情を心の心臓音として、文字の中へ宿していた。「書く」ということは「私そのもの」。それが出来なくなってきている。感情があるのにもかかわらず、それを生かすツールを失ってしまった。生まれ変わったら「コトバ」になりたいほどなのに、このままでは「コトバ」になれない。なんとか家出をしたコトバを探したい。
ある時、ふと鏡をみた瞬間に感じた。「あっ、コトバではなく、心が私から離れている」と。鏡の中に映るはずの私が「映っていなかった」。どんなにお化粧をしていても、どんなに笑っていても、心が離れた私の顔はとても孤独だった。その日から私は夜、布団の中で泣いた。泣きながら居なくなった心に声をかけ続けた。「ひとりにしないでよ」と。
あの時もそうだった。イランで生まれた私は、イラン・イラク戦争の最中に孤児となり、現在の母の養女となった。8歳で来日してからは、貧困も学校でのいじめも経験した。中学3年生のある日、我慢の限界が訪れ、横で眠る母親に聞かれまいと、枕に口を押しつけて何日も何日も泣いたのだった。そして、とうとう枯れた井戸のように、一滴も涙が出てこなくなった。人は泣けなくなると本当に危険だ。あの頃の私は生きることの意味を見出せず、死のうとしていた。
でも、なぜ?34歳になり、多くの方々に支えられている私があの頃と同じ感情になるの?「誰が見ても幸せで、人に恵まれている」のに、私はなぜ、「消えたい」という感情になってしまったのだろう?
心が離れてしまった私の「34歳の不安」。それは歳を重ねていくたびに感じる、母親が長年1人で抱えていた苦労、人生で出会った人への責任、未来という応気楼。昔は大人になれば、「生き方がわかる」気がしていたのに、蓋を開けてみたら、そうではなかった。「大人の階段」というコトバのもう1つの意味は「大人の責任」だという事を知った。この責任がどんどん重さを増し、私はそれを抱えきれず、追い出すように全て心の中へ投げ込んだ。
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source : 文藝春秋 2020年5月号